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恐怖政治を始めたんじゃ

どうも村田です

杉家の実家の宅地の

中にある小屋が改装され、

1部屋の小さな塾が開かれ

松陰が主宰する松下村塾は

この時始まったと言って

いいのだ。

松陰の塾は盛況で

若者たちが集まりすぎて

手狭になったため、

翌年安政5年3月には塾生たち

の手によって、業者を頼まず、

塾生たちは自らそれまであった

部屋に続けてもう1部屋増築

されたのだ。

だから、松下村塾は少し変な

造りになっており、4畳半、

3畳、3畳、なのだ。

ということで、2つの建物が

細い通路でつながっている

というものであり、

この何年間、ずっと大学の学生

さんとともに、毎年宮司さまの

ご厚意で、この建物の畳の上に

座らせていただいているのだ。

しかし、この通路が大変狭くて、

背の高い学生さんはこの通路の

鴨居の所で頭をぶつけたりなど

したことがあるけれど、

近くに行って、観光でも外から

見ることができるようになって

いるので、

ぜひ一度、松下村塾の現物、

本物を萩でご覧いただきたいと

思うのだ。

ということで、どんな授業を

していたのかということで、

唯一残っている絵がこれなのだ。

これは松下村塾で学んで、

長生きして昭和まで生きていた

人物が、

「兄弟で松陰先生の

絵の伝記を作ろう」

ということになり、

実際に松下村塾で学んだ人の

言葉をもとに作られた絵で、

塾で講義をしている

松陰の様子を描いた絵は

これのみということになるのだ。

われわれのイメージとしては、

対面で先生が書見台を前にして、

あとは弟子たちが前にずらっと

正座してという

イメージをしがちだが、

そうではなくて円卓みたいな

形になっているのだ。

「今のゼミ形式みたいな形で

松陰先生は授業をしていたんだな」

ということがこの絵から分かる

のだ。

ということで、8ヶ月ほど後の

12月、松陰は再び野山獄に投獄

されてしまうのだ。

その後は1晩だけ家に帰って、

その翌日、江戸に向かって、

再び生きて帰ることは

なかったのだ。

だから、松陰が主宰していた

松下村塾の実質的な活動期間

というのは、

実はわずか1年ほどに

すぎなかったわけなのだ。

その小さな物置小屋を改造した

塾から明治維新は始まるのだ。

自由な塾だったから、塾生が

何人いたかということは別に

記録が正確に残っているわけ

ではないから分からないけれど、

学術的な研究では92名という

説が有力だが、限定すれば43名

という説もあるのだ。

いわゆる維新の三傑として

長州藩を代表した人物に

有名な桂小五郎、木戸孝允

がいるのだ。

もちろん木戸も松陰を師として

仰ぎ、しばしば教えを受けていた

けれど、松下村塾に通っていた

というわけではないから、

現在は塾生のうちには

数えられてないのだ。

さて、松陰は野山獄から実家に

戻り、完全に自由の身になった

というわけではないのだ。

いわば保護観察のような状態

だったのだ。

だから、自宅でひそかに細々と

教育者としての活動を始めた

わけなのだ。

その一方、時代は確実に

動きつつあったのだ。

中央政界は2つの問題で

大混乱に陥っていたのだ。

1つは外交問題、

1つは内政問題なのだ。

外交問題というのは、具体的

には日米修好通商条約締結問題、

いわゆる外国と条約を結ぶことを

天皇からお許しいただけるか

どうかという条約勅許の問題で、

内政問題の方は次の将軍を誰に

するのかという、いわゆる

将軍継嗣問題なのだ。

松陰は、やむにやまれぬ

大和魂の人なのだ

だから、そのような政治情勢

を傍観しているはずがないのだ。

安政5年正月、「狂夫の言」

という建白書を書くのだ。

そして、それを長州藩に提出

したのだ。

その中には次のような一文が

あるのだ。

以下、引用史料は基本的に

現代語訳で読ませていただくのだ。

「今の日本の危機は、危機を

危機と自覚していないところに

あります。

危機を自覚していれば、

どうしてそれを回避する計画

を立てられないことがある

でしょう。

今、日本が滅びに向かっている

ことはもはや確実です。危機と

いえば、これより大きな危機が

ほかにあるでしょうか」

以上だが、松陰の心配をよそに、

幕府はアメリカをはじめとする

白人諸国の脅迫に屈して、

安政5年6月には天皇の許可を

得ないまま日米修好通商条約を

締結してしまうのだ。

また、幕府は同じ月、次の

14代将軍は紀州藩主徳川慶福

(よしとみ)、家茂にする

ということも決めてしまったのだ。

そのころ、慶福(よしとみ)は

まだ13歳の少年で、この国難を

乗り切るリーダーシップなど、

とても期待できないのだ。

これらはいずれも大老の

井伊直弼が人々の意見を聞かず

に勝手に決めたことなのだ。

それを知って、全国の志士たち

の怒りは頂点に達するのだ。

もちろん松陰も激怒したのだ。

そして、この年の7月13日には

「大義を議す」

という一文を書いて、長州藩の

重臣に送ったのだ。

その一文の中で、松陰は

とうとうこういう主張をする

ようになるのだ。

「これで将軍は日本の国賊と

なった。今、幕府を討たなければ、

後世の人々から私は何と言われる

であろう。

毛利元就公の心霊も地下で

どう思われていることか」

つまり、松陰はとうとう倒幕

を主張し始めたのだ。

もっともこの

「大義を議す」

の全文を読むと、松陰は

本当は幕府の悔を、

過ちを悔い改めることを期待

していて、「今すぐ倒幕せよ」

というところまではいっていない

ことが分かるのだ。

ところが、幕府は悔を

しないのだ。

それどころか、幕府を批判する

人々を権力と暴力で黙らせる政治

いわゆる恐怖政治を始めるわけ

なのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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