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この時始まったんじゃ

どうも村田です

岩倉獄には、生涯、

松陰を裏切ることなく

付いて行った2人の門人、

入江杉蔵と野村和作兄弟

も後に入れられることに

なるのだ。

野山獄というのは、

大体こういう造りで

あったということで

言われており

今は史跡として碑が建って、

小さい場所が造られている

けれど、本来かなり広い

場所であったようなのだ。

しかし、獄に入れられて

から2ヶ月ほどした安政2年

の正月11日、

とうとう重之輔は獄舎の

中で病死するのだ。

まだ25歳だったのだ。

松陰の悲しみようは

尋常ではなかったよう

なのだ。

まず、その死を悼む

長い漢詩を作るのだ。

また、重之輔の生涯を

記した文書を作ったのだ。

さらに、

「監獄に入ると楽しみ

は食事だけだ」

と言われていたけれど、

松陰は自分の食費を削り、

それで捻出したお金を

重之輔の家族に送ったりも

しているのだ。

そのうえ、松陰は各地の

友人に呼びかけて、

重之輔の追悼文集を

作ろうとし始めるのだ。

自分が言い出した命懸け

の行動に、たった1人

従ってくれた重之輔が

自分より先に死んでしまった

という事実が松陰の心を

どれだけ苦しめたか、

想像もできないのだ。

いずれにしても、松陰の

ものの考え方は、その

出来事の後、急激な高まり

と深まりを見せている

思うのだ。

それ以後の松陰の人生は、

ある意味では重之輔の死

という出来事とともに、

あるいは重之輔の魂と

ともにあったと言って

いいだろう。

音楽の世界には通奏低音

というものがあり

重之輔の死という出来事は、

それ以後の松陰の人生の

通奏低音になったのでは

ないかと思うのだ。

松陰が野山獄に入れられた

のは嘉永7年、安政元年の

10月24日で、

それ以後、松陰は、

すさまじい勢いで読書と

執筆を始めるのだ。

松陰が野山獄で読んだ本

も書いた文章も膨大な量が

あるのだが、

そこで書き始められたもの

の中で最も有名なのが、

松陰の主著とも言われている

『講孟余話』

であるのだ。

これは、孟子という古代

支那の古典を松陰が講義

した際の講義録なのだ。

野山獄で松陰の孟子の講義

が始まったのは、安政2年の

6月13日、

そしてちょうど孟子の

半分ほど終わったところで

松陰に出獄の許可が下りる

のだ。

そして、12月15日からは

自宅で謹慎ということに

なったのだ。

自宅に帰った後、松陰の父、

杉百合之助と兄の梅太郎は、

せっかく半分ほどまで

進んでいた

松陰の孟子の講義が中断

することを惜しいと思い

そして、

「野山獄の人々に代わって、

今度は私たちがおまえの

講義を聞く弟子になろう

じゃないか。

だからおまえは最後まで

講義を続けなさい」

と言うのだ。

やがて、その講義に親戚の

久保五郎左衛門も加わり、

2日後の12月17日には孟子の

講義が再開されるのだ。

こうした一族の人々の

温かい励ましをもとに

講義が続けられ、

年が明けた安政3年の

6月13日、1年ほどかけた

孟子の講義が終わり、

その講義録が

『講孟余話』

という名著になったわけ

なのだ。

この本について、

『[新釈]講孟余話:

吉田松陰、かく語りき』

という本があるのだ。

今は電子書籍でしか手に

入らないが、詳しくはその

本をお読み願うのだ。

安政2年、26歳の12月、

松陰は野山獄から出て

自宅に帰ることが許され

たのだ。

しかし、あくまでも

自宅謹慎のみなのだ。

その自宅の1室は今も

保存されているのだ。

今は幽囚室と呼んでいる

狭い部屋なのだ。

その狭い部屋で松陰は

謹慎していたのだが、

それでも家族に孟子の

講義をしていたということ

はすでに書いた通りなのだ。

そのうち次第に家族以外

の近所の若者たちも松陰

に教えを受けるようになり、

2年後の安政4年11月、

杉家の実家の宅地の中に

ある小屋が改装され、

1部屋の小さな塾が開かれ

松陰が主宰する松下村塾

はこの時始まったと言って

いいのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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