どうも村田です
自首して入れられた
下田の獄というか、
それはおそらく檻(おり)
のような所であったと
思われるのだ。
そこから始まるのだ。
檻(おり)に入れられた松陰
にとって、学問の相手は
金子重之輔だけではなかった
のだ。
下田の獄には、ほかにも
囚人がいたのだ。
だから、松陰は昼も夜も大きな
声を出し、ほかの囚人たちにも
聞こえるようにレクチャーを
続けたのだ。
周りの人たちから見たら、多分、
頭がおかしい人にしか見えなかった
だろう。
それでは、その下田の檻(おり)の
中で一体、松陰は何を語り続けた
のか。
松陰が書いた記録、回顧録によれば、
その時、松陰は
「日本が日本である根拠とは何か。
人が人である根拠とは何か。日本を
侵略しに来る外国人たちを私たちは
なぜ憎むべきなのか」
などという話をしたそうなのだ。
ほかの囚人たちは、初めはその講義
を無理やり聞かされていたわけだが、
ほかの囚人たちも入れられてるから
当然聞こえてくるので、
「うるさいな」
と最初は思ったかもしれないのだ。
しかし、次第に松陰の話に耳を
傾けるようになるのだ。
やがて感動し始め、ついには皆、
涙を流しながら聞いてくれるように
なったそうなのだ。
聞いている人たちは普通の人たち
ではないのだ。
当然、何かしらの罪を犯して獄舎に
入れられている人たちばかりなのだ。
そのような人たちを相手に、
「日本とは何か。人はどう生きるべきか。
日本に押し寄せてくる外国にどう対処
したらよいのか」などという、
いわば堅くて難しい話をし続け、
とうとうその人たちを感動させ、
やがて涙まで流させるようになった
というのは、それだけでもう奇跡の
ような話なのだ。
昭和になって、松陰は
「教育の神」
とまでたたえられるようになるのだ。
その神のような奇跡の教育力は、まず
その下田の、いわば檻(おり)の中から
始まったわけなのだ。
やがて4月10日、江戸から八丁堀の
同心2人と岡っ引き5人が来て、松陰と
金子重之輔は江戸に引き立てられる
のだ。
足には足かせをされ、体には縄を
付けられ、手には手鎖、手錠をかけられ、
そのうえで罪人を乗せるための唐丸かご
に乗せられたのだ。
しかし、江戸までの護送の道中でも
松陰は語り続けたのだ。
番人が寝ずの番をしていると、松陰は
その番人に向かって人の道を語り
三島に行くと、3~4人の少年が松陰の
話を聞いて感銘を受け、去る時は
名残惜しそうにして いたそうなのだ。
やがて赤穂義士で有名な高輪の
泉岳寺の前を通った時、松陰が
詠んだ有名な和歌があるのだ。
「かくすれば、かくなるものと
知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
歌の意味はこうなのだ。
「こういうことをすれば、こういう
結果になるであろうと分かってはいても、
国のため、道のため、やむにやまれぬ
気持ちから、あえて行動するのが
日本人の魂」というものなのだ。
同年の15日、松陰たちは江戸に着き
取り調べを受けた後、松陰たちは
伝馬町の獄に入れられたのだ。
獄舎に入ると、松陰はいきなり頭から
衣類をかぶせられ、牢名主から背中を
板でたたかれるのだ。
そして、「金はいくら持ってきたのか」
と問われるのだ。
「1銭もありません」
と松陰が答えると、牢名主は怒り、
「金がなければ命の保障はしないぞ」
と脅したのだ。
すると、松陰はこう言い放ったのだ。
「私はすでに死罪を覚悟しています。
ですから、今さら命を惜しいとは
思いません」
意外な言葉にあっけにとられたのか、
牢名主は急に態度を変えるのだ。
そして、今度は優しげな口調で
こう言うのだ。
「そうはいっても、おまえにも友達
や親戚くらいいるだろう。何とか
そういうところからお金を送って
もらうことはできないのか」
松陰が
「それならば何とかなるかもしれません」
と答えると、牢名主は再び声を荒げて、
「それなら明日急いで手紙を書いて
金を送ってもらえ」と言い、
最後に再び松陰は背中を板でたたかれ
るのだ。
おそらく、ここまでは新人に対する
江戸の獄舎でのお決まりの通過儀礼
だったのだろう。
しかし、それが終わると囚人たちは、
この不思議な新入りの囚人の経歴を
聞きたがるのだ。
すると松陰は、「待ってました」
と言わんばかりの勢いで、とうとうと
語り始めるのだ。
おそらく下田の檻(おり)にいた時と同じく、
「日本が日本である根拠とは何か。
人が人である根拠とは何か。日本を
侵略しに来る外国人たちを私たちは
なぜ憎むべきなのか」
などという話を熱く語ったに
違いないのだ。
すると、獄舎の空気は一変し、
再び奇跡が起きるのだ。
囚人たちは松陰の話を聞いて
皆感動したのだ。
松陰は後、江戸での獄中生活を
「愉快であった」
と回想しているが、それも
分からないではないのだ。
下田でも江戸でも、松陰はいわば
獄中で良き教え子に恵まれたわけ
なのだ。
松陰はどんな所であろうと、そこに
人がいれば、その場を自分の教室に
してしまう人なのだ。
そのような教育の神としての松陰の
力は、そのころから本格的に発揮され
始め、その年の秋、萩の野山獄に
移された後はますます強く発揮される
ようになるのだ。
しかし、松陰には気がかりなことが
あり、すでに伝馬町の獄舎にいた時から
金子重之輔が発病していたのだ。
重之輔は松陰より1歳年下の青年で
先生と門人とは言っても、それほど年が
違っていたわけではないのだ。
松陰は長州藩の学校の明倫館、いわば
国立大学の先生だったから、形のうえでの
門人や弟子はそれまでにもたくさんいた
だろう。
しかし、それらはもちろん
「生きるも死ぬも共にする」
という覚悟を持った門人や弟子では
ないのだ。
その一方、金子重之輔はその覚悟があり
そういう意味で、重之輔はやはり松陰に
とっては一番弟子だったのだ。
9月に判決が下り
しかしそのころになると、もう
重之輔は歩くことさえ困難になっていた
のだ。
重之輔は、そのような体で江戸から
萩まで護送されるのだ。
むろん松陰も一緒に護送され
これは悲惨というほかないのだ。
すでに寒さが身に染みる季節だったから、
旅の途中、松陰は自分の服を脱いで
重之輔に与えるのだ。
その時、重之輔は泣いて先生に感謝の
言葉を届けたが、重之輔の病気は
重くなる一方なのだ。
10月になって、ようやく2人は
萩に到着するのだ。
武士身分の松陰は野山獄に、
そうではない重之輔は岩倉獄に
入れられるのだ。
岩倉獄には、生涯、松陰を裏切る
ことなく付いて行った2人の門人、
入江杉蔵と野村和作兄弟も後に
入れられることになるのだ。
つづきは次回だ
今日はこのくらいにしといたる