Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

そこから始まるんじゃ

どうも村田です

わが国を取り巻く

圧倒的で絶望的な

白人諸国の包囲網を

前にしても、

そこに自分の体一つを

ぶつけ、そのため自分の

身は滅んだが、

閉塞(へいそく)した

時代の突破口を開いたのだ。

そして、その教えを受けた

門人たちも、師と同じ次々と

時代に立ち向かって体当たり

を続け、

彼らも次々と散っていくが、

やがて松陰やその門人たち、

彼らが開けた小さな穴から

一筋の光が差し込んできたのだ。

こうして明治維新という

大業は成就していくわけだが、

話はそこで終わらないのだ。

そうして成立した近代日本は、

そのころの白人が支配する

全世界に風穴を開けるのだ。

白人諸国から目障りに

なっていった日本は次第に

追い詰められていき、

やがて大東亜戦争を戦わざる

を得なくなりますが、

大東亜戦争の結果、

15世紀以来400年に及ぶ

白人諸国による世界支配は

大きく崩れていくわけで、

そのことについては

「大東亜400年戦争」

というテーマで話しするのだ。

そのような世界史の流れを

ざっと見たうえで、再び

萩の松下村塾に目を転じると、

その建物は誠に小さな

物置を改造した粗末な

ものなのだ。

しかし、そこから世界史が

動いていったのだと思う時、

私たちは限りない感動と

今を生きる私たちへの

限りない励ましを受ける

ような思いがするのだ。

現在も萩の松陰神社の

鳥居の前には、

「明治維新胎動の地」

と刻まれた石碑が立って

いるのだ。

胎動というのは、

お母さんのおなかの中に

宿った小さな命が動き

始めることだが、

「誠に松下村塾は明治維新

の胎動の地であったな」

と改めて思わざるを得ないのだ。

松陰の奇跡のような

生涯の出発点とは

どこであったのかというと、

もちろん幼いころの伝記を

ずっと丁寧にたどっていく

ことも大切なのだ。

しかし、大きな視点から見て、

やはり松陰の松陰らしい

人生がはっきりと始まったのは、

安政元年、西暦では1854年、

25歳の時、下田でペリー艦隊

の船に乗り込もうとした事件、

世に言う下田踏海事件から

ではなかったかと思うのだ。

それはこういう事件で

ペリー艦隊は日本に2回

来ているのだ。

初めは嘉永6年、1853年

時に松陰は24歳なのだ。

その時、ペリーは軍艦を

4隻率いていたのだ。

ペリー艦隊は日本政府の

制止を無視し、江戸湾に

侵入するのだ。

そのころ江戸湾に設置

されていた日本の防衛用

の大砲は全部で99門あったが、

すべて旧式砲で射程距離は

数百メートル、それに

比べてペリー艦隊の大砲は

63門で、

すべての大砲の射程距離は

1,500メートル、つまり

日本の大砲の射程距離の

3倍近くあったのだ。

つまり、いざ撃ち合いに

なったら、いくら日本の

砲台から砲撃したところで

ペリー艦隊には1発も届かず、

一方ペリー艦隊が打ち出す

砲弾はすべて江戸の街に

着弾するだろう。

戦う前から勝負は

ついていたのだ。

そのころ、江戸の庶民が

「たった四杯で夜も寝られず」

と詠んだ気持ちもよく分かる

のだ。

2回目の来航は、その翌年の

嘉永7年、この嘉永7年は

11月27日から安政元年となるが、

その年の1月で、この時に

なると軍艦の数は何と7隻

に増えていたのだ。

もはや抗うすべはないのだ。

ペリー艦隊の軍事的な

脅迫に屈した幕府は、

日米和親条約を締結した

というか、締結させられた

のだ

その年の3月に起こった

のが松陰の下田踏海事件

なのだ。

松陰は午前2時ごろ、

真っ暗なころ、

金子重之輔という門人と

ともに、

ひそかにペリー艦隊の船に

乗りつけ、

「自分たちをアメリカに

連れて行ってほしい」

と申し込むという、

誠に大胆な行動に出るのだ。

ペリーの命令で通訳が

会いに来るのだ。

しかし、結局のところ、

アメリカ側からの2人に

対する返事は「ノー」なのだ。

乗ってきた船は流されて

いたので、2人はアメリカの

ボートで沿岸に戻されるのだ。

計画は失敗に終わったのだ。

鎖国という国の法律を

破ったのだから、当然

2人は死を覚悟していた

だろう。

それでも2人は潔く

自首したのだ。

松陰は、それまで九州から

東北まで全国各地を歩いて

きたが、

以後、松陰の行動の自由は

永遠に失われてしまうのだ。

しかしその一方、この時

安政元年3月から、いわば

教育の神としての

松陰の人生が本格的に

始まるのだ。

獄中教育、つまり

監獄の中での教育は、

まず自首して入れられた

下田の獄というか、それは

おそらく檻(おり)の

ような所であったと思われ

そこから始まるのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

Follow Me