どうも村田です
次は、2つ目で、
三島先生が市ヶ谷の
総監部でああいうふうな
非業の死を遂げられて、
自衛隊側としてはその
反動として、三島先生の
自衛隊における足跡
というものを消去しよう
という向きがあって、
歌碑を撤去するなど、
いろいろなことがあった
のだ。
そういう逆風の中で、
先生の没後20年して、
先生が勇を鼓して
三島由紀夫展をされた
という話を承ったのだが、
それについて先生から
一言お願いするのだ
三島由紀夫先生が自決
なさってから20年の歳月
が流れて、
私は本当に福山さんの
お力で自分がトントン拍子に
出世街道を行って、その時
には中隊長になっていたのだ。
それで、駐屯地の創立記念日
に毎年大講堂で作品展と
いうのをやるのだ。
隊員の作品展で
ところが、ほとんど入場者
はないのだ。
作品を出した人が少し
見に行くだけで、誰も
行かないのだ。
そこで、うちの中隊がそれを
担当したのだ。
何としても大勢の人を
入れたいと思ったのだ。
その前に、中隊で「お宝展」
というのをやり
中隊の隊員に
「何でもいいから自分が宝に
しているものをお持ちになれ」
ということで、
自習室に百何十点並べて、
理由を書いてあるわけなのだ。
ある子のお宝は消しゴムで、
「先生からこの消しゴムを
もらって、この消しゴムは
こんなに自分が大変な時に
先生が私にくれたのだ。
だからずっと大事にしている」
ということで、本当に人
それぞれ宝というのは
違うのだ。
2回目をやった時には、
今度はとにかく
「高価な宝があったら
持ってきなさい」
という話にして、
どんどん皆さんが家の宝を
持ってくるようになり
それで、意を強くして、
創隊記念日の作品展を
思い切って三島由紀夫展に
化けさせておいたのだ。
表面的には、隊員の作品展
だったのだが、その中に
入ってみたら半分以上の
会場は
三島先生の作品や、思い出の
品々や、そういうものを集めて、
大作展というのをやり、
大好評で、多くの人に
「素晴らしい」と言われたのだ。
だが、私は連隊長にも何も
言わずにやったのだ。
連隊長も見に来たが、何も
言わないのだ。
一言も言わないのだ。
やはり、「10年一昔」と言うが、
みんながどういう反応をするか
というのが見たかったのだ。
そうしたら、誰も全く
言わないのだ。
それは
「これで三島先生も救われたな」
と私は思ったのだ。
これがその時の、私が中隊長
の時の作品展の写真なのだ。
本当は思い切って中に
「三島由紀夫作品展」
と書きたかったのだが、
あまりにも露骨すぎるので
「入ってみたら分かる」
という仕掛けにしていたのだ。
隊員に
「もし三島先生の色紙、
その他もろもろがあったら、
ぜひ出品してくれ」と言うと、
たくさんの色紙が集まったのだ。
「よくみんなこれだけ
書いてもらっているな」
というぐらいで、びっくり
したのだ。
これを、山中湖にある
三島由紀夫文学館の館長先生、
近大の名誉教授の佐藤さん
という方に見せたら
「文学だけじゃなくて、
書もすごかったんだな」
と言われたのだ。
私は、いつも
「これを見てくださいよ。
みんな『この書の中から、
すごいエネルギーが出ている』
と、
外国のヒーラーさんたちも
言うのだ。
だから、本当に先生の
書かれた文字からは、
ものすごいパワーが
出ていますよ」
という話をするのだ。
そうしたら、館長の佐藤さんも
「実は、本当はそういうものも
三島由紀夫文学館に飾りたいのだ」
と言っていたのだ。
それから、自衛隊に入って、
これだけ訓練を受けて、
いろいろななじみの自衛艦
との交流もあったり、
「自衛官が好きだ」
といろいろな作品にも書いて
おられますし、インタビュー
にもそう言っている先生なのだ。
三島由紀夫文学館は、
富士学校とは篭坂峠を越えたら
もうすぐ山中湖のほとりに
あるわけなのだ。
佐藤館長は
「そのようなことも乗り越えて、
本当はプラスして文学館に
飾りたいのだよね」
と言っていたのだ。
それでも、
「最初の目的は遺族の皆さんに
『三島文学だけに限定して』
と言われたので、それを
守っているのだが、
瑤子夫人もお亡くなりになって、
あとは子どもさんお二人なので、
何とかもっと三島先生の良さや、
そういうものを知って
いただくために、もっと
多くの人に来ていただくために、
やはりもう少し幅を広げた
方がいいかな」
と佐藤先生は言っていたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる