どうも村田です
これはコンバットマンの
話なのだ。
「五月とはいへ、冷雨瀟々
( しょうしょう ) たる或る
午後のこと、
私はその日に見学することに
なってゐた無反動砲標定銃射撃が、
雨天で中止になったときいて、
ひとり宿舎にゐた。
富士の裾野の、冬を思はせる
肌寒い一日で、こんな日には、
都会のビルは昼からあかあかと
灯して人々が仕事にはげみ、
家々では灯火で主婦が編物を
したりテレヴィジョンを見ながら、
ストーヴを蔵 ( しま ) ひ込んだ
のは早すぎたかと思案したり
してゐるにちがひない。
しゃにむに人々を冷雨の中へ、
傘もなしに引きずりだすやうな力は、
ふつうの市民生活には欠けてゐた。
突然、ジープに乗って、一人の
士官が私を迎へに来た。
標定銃射撃は雨中強行されて
ゐるといふのである。
ジープは荒野の間の凸凹に充ちた
道をひたすら走った。動揺は
甚しかった。
荒野には人影もなく、ジープは
雨水が瀬をなして流れる斜面を
上り、又下った。
視野は閉ざされ、風は募り、
草叢 (くさむら ) は伏してゐた。
幌の隙間から冷雨は容赦なく私の
頬を搏 (う )った。
かういふ日に、荒野から迎への
来たことが私を歓ばせてゐた。
それは非常の任務であり、
遠くから呼んでゐる旺んな
呼び声だった。
雨に煙る広漠たる荒野から、
私を呼んでゐる声に応じて、
暖かい塒(ねぐら)を離れて、
急ぎに急いでゐるといふこの感じは、
ずっと久しく私の味はったことのない
狼の感情であった。
何かが、剥ぎ取るやうに、私を
促して、暖炉のかたはらから私を
拉し去る。
そこに不本意やためらひがなくて、
世界の果てから来た迎へに喜び勇んで、
私は出発するとき、
瞬時に、あらゆる安逸と日常性は
見捨てられる。
何かそのやうな瞬間を、はるかむかし、
たしかに一度私は味はったことがある
のだ。
ただ、むかし私へ来た外部の呼び声は、
内部の呼び声と正確に照応しては
ゐなかった。
それは私が外部の呼び声を肉体で
受けとめることができず、辛うじて
言葉で受けとめてゐたからだと思ふ。
それがあの煩瑣 (はんさ) な観念の
網目でからみとられるときに生ずる
甘い苦痛は、
私にはたしかに馴染があったが、
もし肉体を堺にして、二種の呼び声が
相応ずるときには、
どんな根源的な喜びが生れるか
といふ消息については、かつての
私は無知だった。
やがて鋭い笛のやうな銃声が
轟いてきて、私は雨の彼方に煙る
標的へ向って、何度も誤差を
修正しながら放たれる標定銃の、
鮮やかな蜜柑いろの曳光弾を
目にとめた。それから一時間、
私は雨に打たれたまま、
泥濘 ( ぬかるみ ) の中に腰を
下ろしてゐた。」
今、朗読を聞いてもらったのだが、
失礼だけれども私も最初はちんぷん
かんぷんだったので、
「三島由紀夫文学難しいな」
と思いながら見たのだが、実際に
そこにいた自分と三島先生との心を
通わせていくと、だんだん読めて
きたのだ。
今から大事な所だけを説明すると、
要するに
「こういう日に荒野から迎へに来た
ことが私を歓ばせていた。雨に煙る
広漠たる荒野から、私を呼んでいる
声に応じて」と、
「私が行きましょう」と言った
わけなのだ。
まさかだと思ったのだが、
「(任務上の強い意志の発動に
彼は答えて)温かい塒(ねぐら)
を離れ、
にわかに出かけようとする決心を
簡単にさせるものは、何か」
ということが彼の頭をよぎったわけ
なのだ。
その「何か」というのは、彼が
思い出したら「狼の感情じゃないか」
と言ったのだ。
狼の感情というのは何なのだろう
と調べていったら、
「狼の感情とは好奇心旺盛で
かしこい狼は、感情がとても
豊かな性質をしていて、仲間などに
対しても愛情をもって接する」
ということで、
「こういう感情を言う」
と言っているのだ。
だから彼は、私のあれから
こういうことを感じ取ったのだ。
日ごろずっとおそば付きでいるから、
「高橋がどういう人間で、
どういう性格でどうだ」という
ことも、
彼のように能力の高い人は即座に
掌握できていたと思うのだ。
それで、
「この感情はずっと久しく味わった
ことのないものであった」と、
これを狼の感情に例えている
わけなのだ。
つづきは次回だ
今日はこのくらいにしといたる