どうも村田です
自衛官の仲間の中では、
三島由紀夫大先生の
お傍に時間的に一番
長くいた人物として
自分もそれを認め、そして
20歳~21歳の青春時代の
真っただ中に、
三島由紀夫先生のどこを
見て、どこに注目して、
何を感じたかという
ようなことを、
ほかの人たちとは少し
違った観点から見ている
のではないかなと思って
いるのだ。
そして、自分が1ヶ月間
おそば付きをして先生と
行動を共にし、
ある時は私の命令に従って
動き、その時に三島先生に
どのような影響を与えたか、
それが彼の最後の死の名場面
にどう作用し、どう参考に
なったかというようなことも、
縷縷(るる)話ししていきたい
と思うのだ
最初に、この企画をやるに
当たって、福山大先輩から
お誘いをいただいたこと
本当にうれしく思うのだ
時間がもったいないので、
福山先輩との関係や、
縷縷(るる)については、
今朝書いた原稿を読ませて
いただくのだ
初めに、私は福山さんと同じ
中隊に所属し、私の幹部候補生
学校入校履修前教育の教官を
担当していただいて、
そのおかげをもって久留米の
幹部候補生学校を優秀な成績
で卒業でき、
その後の自衛隊生活を
恵まれた環境の中で存分に
楽しむことができたのだ
これもひとえに、当時、
福山先輩の能力を私に真剣に
なって与えてくれた、その
結果だと私は思っております。
当時の私にとっては、
福山さんは突然現れた神的な
存在のようにも思えたのだ。
なかなか恩返しができずに
いましたが、このチャンスが
今日訪れたものと思い、喜んで
引き受けた次第であります。
今日、この立ち位置にあるのは、
福山さんから
「実はこんな企画をしている
のだけれど」と、
『三島由紀夫と陸上自衛隊』
と題するDVDを提示された
ことがきっかけとなったわけ
なのだ
私は三島由紀夫に関する
秘蔵品をたくさん所持して
いるのだ
私の手のうちを全部お見せし、
ご説明を申しあげるのだ
そこから出演の話をいただき、
私が「お役に立てるなら」と
快諾したというのが、
今回のこの企画に参加して
いる狙いでもあるのだ
私も冨澤先輩と同じで、
福山さんに頼まれたら絶対に
「NO」とは言えないのだ
それほど若いころにお世話に
なっておりました
この企画の目的でもあるように、
三島先生の自衛隊との関わりを
語り継ぐ人が極めて少なくなり、
85歳を過ぎて他界した人が多く、
その証拠はだんだん薄れてきて
いるのだ
しかし、私が撮影した数十枚の
写真や色紙が語りかけてくれ
るのだ
これが三島由紀夫と自衛隊の
関わりを証明しているのでは
ないかなというふうに思うのだ
これらの証拠の一部は、
自決から50年目にして初めて
世に公開したものばかりなのだ
その時、多くの人に驚きを
もって注目されたのだ。
それでは、もっと具体的に私と
三島先生との関わりについて
お話を申しあげるのだ。
私が自衛隊に入って、2ないし
3年のころだったのだ。
滝ヶ原自衛隊第3中隊の副中隊長、
岩田貞幸一尉から
「君、今度重要な任務を与える
から頑張ってみなさい」と言われ、
「三島先生の体験入隊の、
隊内生活の面倒を見てほしい」
との内容だったのだ。
「岩田一尉の命令となれば、
火の中、水の中」
という気持ちを常に持っていたので、
何の抵抗もなく引き受けたのだ。
後で驚くのだが、すごく偉い人で
あることが分かり、任務の重大さ
を認識し、なぜか
「この任務は私が一番適任である」
ということを不思議と自覚したのだ
こうして、三島先生と共にある
日々がスタートをしたのだ。
朝は6時の起床から夜10時の消灯
まで、身の回りのお世話をさせて
いただいたのだ。
そのような中にあって、写真撮影
は私だけが特別に許されていたのだ。
現在でもたくさんの写真を
保有しているのだ。
ただし、私とて教育訓練の内容に
ついては撮影が禁じられていたのだ。
それは命令に近かったので、
この種の写真は一切撮影して
おらず、所持してないのだ。
ただし、三島先生に関する
訓練視察の車での送迎や資機材
の準備、ならびにご視察終了後
の体の整備などは積極的に行って
おったのだ。
上半身は筋骨隆々で、まるで
金剛力士像のようにたくましい
体をしていたのだ。
就寝時は、真っ白いステキな
ふんどし姿だったのだ。
このように、三島先生の
プライベートな私生活にも
結構入り込んでいたのが、
約1ヶ月間の三島由紀夫付き
の勤務の内容なのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる