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尊王攘夷の志士なんじゃ

どうも村田です

食べるものがなくなって

しまい、自分のかわいい娘を

遊郭に身売りさせる、そんな

悲劇が 起こった時代なのだ。

社会事業家の代表が渋沢さんに

助けを求めてやってきたのだ

救ってもらいたいと思って、

「何とかしてください」、

渋沢は床からはい上がって

話を聞いたのだ。

同情した渋沢さんは、

「分かった」と言って、すぐ家族に

「今からすぐ大蔵大臣と内務大臣

のところへ行くから、電話してくれ」

と言ったのだ

そしたら、そばにいた主治医が

「危ないからやめてください」と、

体を動かせる状態ではなかったから、

家族も反対したのだ。

そしたら、渋沢さんはこう言ったのだ。

「先生のお世話で、こんな老いぼれが

養生しているのはせめてこういう時の

役に立ちたいからですよ。

もしこれがもとで私が死んでも、

20万人の不幸 な人が救われれば

本望じゃありませんか」

主治医も家族も返す言葉がないのだ。

死の直前までこうやって尽くしたのだ。

立派なのだ。

いつもこう言うのだ。

でも家族は心配で 90といったら、

今までは軽く100を超えているから、

止めると思うのだ。

そしたら渋沢は決まって

「人間を辞職するわけにいかん。

人間である限り、私はやるんだ」、

その物語を読んで、少し涙が出たのだ。

こういうことで、最晩年の15年間、

全力を挙げたのだ。

大体こういう時は金がかかるから、

寄付なのだ。 渋沢さんがいの一番に

奉加帳に書くのだ。

だから、財界人はいつも渋沢さんから

「寄付しろ寄付しろ」

と言われるのだから、ある財界人は

こう言ったそうなのだ。

「渋沢さんに会うと、また

寄付をさせられる」と

ぼやいたそうなのだ。

しかし、喜んで寄付をしたのだ

そしてもう1つだけ、渋沢さんは、

これは若い時から、明治の最初から

なのだ。

東京養育院という所で、孤児、親が

いない人たちのお世話をする養育院の

院長を死ぬまで続けたのだ


明治9年から57年間。

偉いのだ。

その時の逸話だが、これが面白いのだ。

最晩年のある時

毎月1回必ず、どんなに忙しくても

この孤児たちの所、養育院の所に行き、

お土産のお菓子なんかを用意して、

そして必ず話を聞いてあげたそうなのだ。

あるいは話をしてあげたそうなのだ。

ある日、こうやってこのように

孤児たちに語ったのだ。

「皆さんは親がいないなどと寂しい

考えを起こしてくださるな。どうか

この私を本当の父親だと思って何でも

甘えてください。私もできるだけの

ことはしてあげるつもりです」

財界の大御所でもう時間は全く、

忙しくて忙しくて、財界を引退した

と言ったって大変な忙しさなのだ。

毎日目の回るような忙しさなのだ。

にもかかわらず必ず毎回行って、

子どもたちの話を聞いてやって、

話をしてやって、

「私を本当の父親だと思ってください。

何でも甘えてください。できるだけの

ことはしたい」、

こうなったら神仏の心境なのだ。


このようにして、最後まで世のため、

社会のために尽くしたのだ。

最後のまとめなのだ

渋沢さんの生涯、尊皇攘夷の志士

としての心を忘れなかったのだ。

すなわち尊皇愛国の心を持って、

祖国日本が世界の中で独立を全うして

立派な国になることに全力を挙げたのだ

そして自分の一番の得手である学業

において社会に貢献したのだ

道徳と経済の一致、

武士道と実業道の一致、

士魂商才の精神、

三方良しの経営をやり抜いたのだ。

近代日本を代表する偉人の1人として、

永遠に日本の歴史に名をとどめる

偉人の1人であろうと思うのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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