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おもろいんじゃ

どうも村田です

あるいは大きな企業、

いわゆる株式会社を

起こすことができない、

「いかに多くの人たちの資金を

結集するか、それには近代的な

金融業でないとダメだ」

と言って、この三井や小野組の

責任者、一番偉い人を説得する

のだ

そして、説得に成功して、

「よし分かった。全面的に協力

しましょう」と、多くのお金が

集まるけれど、

そのうちの半分ぐらいはこの三井

と小野組が出したそうなのだ。

それでも、それ以外はそれ以外の

多くの人からお金を集めたから、

ものすごい資金力なのだ。

これに成功したのだ。

大変な苦労があったそうだが、

渋沢栄一の性格の1つが不撓不屈

の努力なのだ。

非常に粘り強い性格なのだ

苦難があったけれど、その苦難を

乗り越えて、ついにこの銀行の

創設に成功するのだ。


まるで短い間にできたのだ。その後、

全国各地にこの銀行をつくっているのだ。

私立銀行なのだ

だから今でも、

「第百十幾つ銀行」

などというのが所々にあるのだ。

これは全部明治の時代にでき

明治10年代に全国にこの金融網は

ほとんど完成したのだ。

すべて渋沢の尽力の賜物で

これだけでも渋沢は歴史に名を

残す価値があるかと思うのだ

その後、鉄道業なのだ

もともと日本最初の鉄道建設の

事務的な責任者だった渋沢は

私立鉄道の建設に全力を挙げた

のだ

政府としては国有鉄道の建設を

進めていくけれど、国有鉄道だけ

では足りないのだ。

そこで私立の鉄道を全国各地に

結成していくのだ。

全国各地の有力者が渋沢を

中心に造っていったのだ

こういう企業をつくるときに、必ず

発起人が必要になるのだ。

発起人代表に必ず渋沢栄一を

選んだそうなのだ。

渋沢栄一さんを発起人の代表に

いたしますと、すべてうまく

いくからなのだ。

こうして、官設、私設の鉄道は

明治20年代に一気に増えていくのだ。

こうして2番目の鉄道業も

成功するのだ

渋沢栄一はこの鉄道業と同時に、

もう1つやったのだ。

何かというと海運業で

日本はフランスと違って海に

恵まれているのだ

フランスはもちろん地中海が

あるけれど、日本は周りが全部海

だから、

「鉄道だけではダメだ。海運業も

興さなければいけない」と、

これも中心になり、例えば日本郵船

だとか東洋汽船等の設立の中心者に

なるのだ


そして3つ目

株式会社なのだ

株式会社をつくるためにも、

この近代的金融制度が必須

であったのだ。

銀行がお金を貸すわけだから

この株式会社設立において

一番最初、鉄道会社と共に

中心だったのは紡績会社なのだ。

日本の産業革命は、最初は紡績業

なのだ。

イギリスの産業革命でも

やはり同じでいわゆる軽工業から

始まって、それから重工業に

移っていくのだけれど、日本も

この紡績業から始まるのだ。

渋沢はこの紡績会社の創設においても、

当時の有力な実業家と提携して、

有数の貿易会社をどんどんつくって

いくのだ

こうして渋沢が中心となってつくった

企業は全国で全部で500社と言われるのだ。

今でも有名なのは例えば王子製紙、

あるいは東京海上、日本鉄道会社、

秩父セメント、東京ガス、 東洋紡、

帝国ホテル等々なのだ。

全部で約500と言われ渋沢はこの

500の企業設立のいつも中心者で

発起人の代表なのだ

しかし、この会社をつくった後、渋沢は

この会社の社長になったかというと、

全部の社長にはなってないのだ。


社長になったのは第一国立銀行と

王子製紙ぐらいなのだ。

あとは全部適材適所で

優秀な人物を選んで、社長に

なってもらうのだ

渋沢はもちろんその500の会社の

有力な株主の1人なのだ

つまり渋沢は、渋沢財閥を

つくらなかったというところが

面白いところなのだ。

つくろうと思えば日本第一の財閥を

つくることができたはずなのだ。

当時の財閥の有名なのは三井、

それから三菱、住友、安田等々

あるのだ。

それ以上の財閥をつくることが

可能だったけれど、渋沢は

つくらなかったのだ

それはやはり周りの人は

「なぜつくらないんだ」と、

不思議に思うわけなのだ。

渋沢は最晩年、息子さんたちに

こう言ってるのだ

面白いことを言っているのだ。

「わしがもし一身一家の富むこと

ばかりを考えていたら、三井や岩崎」、

三菱のことだが。

「岩崎にも負けなかっただろうよ。

これは負け惜しみではないぞ。」

またこう言ってるのだ

「自分は従来、事業に対する観念は

自己の利殖を第二位に置き」、

2番目に置いて、

「まず国家社会の利益を考えて

やって居た。それであるから金は

溜まらなかったが、

普通の実業家と称せらるる人々よりは、

比較的国家社会の為になった点が

多かろうと自ら信じて居る。

此の点から云えば 余の主義は

利己主義ではなく公益主義

ということが出来よう。

欺う言えば如何にも自慢高慢を言う

様であるけれども、衷心(ちゅうしん)」、

心から、「自ら左様信じて居る所を

遠慮なく告白するばかりである」。

面白いのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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