どうも村田です
フランスに着いたのだ。
このフランス生活は結局
1年半で終わり、訪仏、
フランスへの留学というのが
人生の第3の転機になるのだ
最初に書いたようにに、
尊王攘夷の志士であったのだ
日本を狙っているその筆頭が
イギリスなのだ
イギリスとかフランスだとか
ロシア、そういう欧米列強の
代表の1つであるフランスに
留学することになったのだから、
人生分からないのだ
打倒すべき対象であるフランス
に行き、そこで大変な経験を
するのだ
大きな文化的衝撃、いわゆる
カルチャーショックを受けるのだ
ちょうどフランスに行いった時、
パリでパリ万国博覧会が開かれて
いたのだ。
世界各国から優秀な生産品が
陳列されているのだ
近代科学の粋、結晶である、
例えば蒸気機関なのだ
耕作機械、紡績機械、それから
電気が登場したから電線、織物等々、
半年ぐらい続くのだ
けども、毎日毎日飽きもせず
見学していたのだ
そしてその結果、大きな覚醒を
得るのだ
これからの日本に何が
必要かということなのだ
日本が欧米列強の植民地、
属国にならないためには一体
何が必要かということを
打倒すべき対象である
フランスに行って気が付いたのだ
結局3つだというのだ
1つは銀行制度。
近代的金融制度なのだ
日本にも金融制度がもちろん
あったのだ。
高利貸しというのが
あるのだ
それではダメで
多くの人から資金を結集する、
大小のお金を集めて、大きな
資金をつくる銀行制度。
これが1つなのだ
2番目が株式会社
いろいろな企業をつくらなければ
いけないのだ
そのためには、これも銀行と
同じ考えでだれど、多くの
人たちのお金を結集する、
この株式会社制度なのだ
当時は株式会社という
言葉がないから合本制度という
言葉を使っていたのだ
合本というのは資本を結集する、
合わせるという意味なのだ
それからもう1つが鉄道。
この3つ、フランスを始め欧米列強が
隆々と発展している近代的な大工業国
になっているのはこの3つだと、
非常に優れた見識の持ち主だから、
すぐそれに気付くのだ
「よし、日本に帰ったら
自分はこの3つをやろう」と、
そう思って一生懸命学んだのだ
全く大きな人生の転換点なのだ。
フランス留学は大収穫だったのだ
大体、留学期間は3年、4年と
考えられたのだ
ところが徳川幕府は1年半で
すぐなくなったのだ
だからもう資金がなく生活できないから、
日本に帰らざるを得なくなったのだ
しかし、日本に帰っても、もう
徳川幕府はないのだ
幕臣ではないのだ
もう夢が破れたのだ
徳川慶喜は将軍の座を去り、静岡に
70万石の一藩主として、最初の
うちは謹慎生活なのだ
謹慎が解かれて静岡に行き
「さて、これからどうしよう」と、
もうどうにもならないのだ
静岡でこれからどうやって生きて
いこうかと思っていたら、第4の
人生の転換点がくるのだ
新しくできた明治新政府から
お呼びがかかったのだ
大蔵省に来いということなのだ
大蔵省の高官だった大隈重信から
誘われたのだ
大隈重信に説得され
「君、ぜひ来てくれ。君のその
優れた才幹が新しい日本に必要なんだ」
と説得されたのだ
ところが渋沢栄一は旧幕臣だから、
幕府に対する恩義があるのだ
最初は行く気はなく
「新政府に仕える気はない」
ということだったのだ
ところが、仕草を奥の大隈重信の
説得に負けて、
「分かりました。じゃあやりましょう」
ということで大蔵省に入ったのは、
明治2年なのだ
それからわずか4年足らずで、
最初から大蔵省の高級官僚なのだ
租税正(そぜいのかみ)といって、
税金の租税局長なのだ
大蔵少丞といい、今でいうと局長級
なのだ
その後、大蔵大丞といい、上の次官
と下の次官があるのだ
その後、大蔵少輔というのがあるが、
それが今の次官になるのだ
だから大臣の次
トントン拍子で出世したのだ
当時の大蔵省の上の人は何人か
変わるけれど、大隈重信、それから
伊藤博文、それから井上馨なのだ
薩長土肥の有力な藩の出身者が
大蔵省の高官だったのだ
ところが、こういう人たちは財政
だとか経済だとか、そういったこと
はあまり経験がないわけなのだ
志士として政治活動に携わってきた
人ですから、やる仕事は初めてやる
ことばかりなのだ
未経験な仕事ばかりで
そこに渋沢がやってきまして、
もちろん渋沢だって初めてやる
仕事ばかりなのだ
ところが、渋沢は持って生まれた
経済的な、あるいは経営的な、
あるいは商人的な、そういう才覚が
あったのだ
素質をお父さんの血を継いで
いたのだ
何をやらせてもできるのだ
重宝がられて、渋沢がいなかったら
1日も大蔵省が成り立たない、
そういうような状態なのだ
そこで全力を挙げたのだ。
先日書いたが
「富岡製糸場を造らなければいけない」
と、日本は明治の最大の輸出品は
生糸だから、それで富岡製糸場が
できたのだ。
その時の実務責任者なのだ
それから新橋、横浜に、初めて
日本に鉄道が造られたのが
明治5年なのだ
この時の実務責任者も渋沢なのだ。
何をやらせても渋沢なのだ
そういうことで大活躍したのだ。
もう1つ大きな仕事は、廃藩置県
というのが明治4年にあり
この廃藩置県を実現した最大の
政治的な責任者は西郷隆盛なのだ
西郷隆盛の素晴らしい指導力、実行力で、
「とても今すぐにはできない」
と思われた廃藩置県ができて初めて
明治維新が完成したのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる