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注目されとんじゃ

どうも村田です

歴史に興味があり、

近代日本の代表的な経済人、

渋沢栄一について話を

させていただくのだ

さて、今、渋沢栄一が大きく

見直されているのはご承知の

通りなのだ

新札に登場したのだ

なぜ渋沢栄一が今日(こんにち)

注目されているのか、再評価

されているのかということが

主題になると思うのだ

近代日本を代表する経済人、

実業家であるのだ

日本資本主義の父、実業・財界

の太陽、財界の大御所と称え

られて、

明治、大正、昭和の92年を

生き抜いた人物であるのだ

渋沢は銀行、鉄道、海運、紡績等、

約500以上の企業を興した、

近代日本経済の2人といない卓越

した司令塔であったのだ

さて、なぜ今渋沢が見直されて

いるのだろうか。

その一番大きな理由は、今日の

アメリカ経済に代表される

経済経営の在り方、

すなわち、自己の利益のみを追求し、

他人・社会・国家を顧みない、

いわゆる株主資本主義、金融資本主義、

市場原理主義等の言葉でもって

言われておるのだ

このような経営の在り方、その

対極にあるのが渋沢であるから

なのだ

渋沢の実践した日本的経済、

日本的経営とは一体何であったか

ということをかいつまんで

話しをするのだ

さて、渋沢は幕末の生まれ

になるのだ

今の埼玉県武蔵国血洗島、

現深谷市。そこに生まれたのだ。

豪農、豪商であり優れた父、

優れたお母さんのもとに健やかに

渋沢は成長するのだ

人柄も、それから頭脳も、

そして見識も、そして手腕も

併せ持った卓越した人物であるが

このような人物になり得た

一番大きな理由は、天から

授かった素質と、もう1つは

父と母の感化、影響であるのだ

渋沢の父と母のことを最初に

触れるのだ

お父さんは養子で

この渋沢の生まれた村は

渋沢姓がいくつかあるのだ

その親戚から来た人で

男の子どもがいなかったから

養子に入ったのだ

このお父さんは非常に立派な

人物で、渋沢家を繁栄させる

のだ

お百姓の出身だが、文武両道の

教育を受けた人でもあるのだ

お母さんはえいと言い、

家付娘なのだ

この人の性格は非常に愛情の深い、

慈愛に富んだ性格なのだ

困窮者に対して同情して何か

与えずにはおかない、そういう

性格の人で、こんな逸話が

残されてるのだ

村には共同のお風呂があり

ある時、一緒のお風呂に行った

ところ、当時らい病と言われた

女性が入ってきたのだ。

今のハンセン病なのだ

当時は不治の感染病として、

伝染病として人々から恐れ

られたのだ。

だから、お風呂に入っている

女性全部が一斉に風呂場から

逃げ去るのだ

ところがおえいさん、この

お母さんは1人残り、このらい病

の女性の背中を流してあげる

ような親切な人だったのだ

このようなお父さんと

お母さんの良いところを

一身に受けて育つのだ

お父さんは跡継ぎ息子の栄一に

期待して、小さい時から立派な

教育を授けるのだ

栄一は素晴らしい人格のみならず、

才能も豊かだったのだ

非常に豊かな記憶力を持ち、

向学心があったのだ

そして剛毅で、意志が強く、

負けず嫌い、几帳面で真面目、

そういう性格の人なのだ

この渋沢栄一に教育を授けた人が、

お父さんともう1人いるのだ

それが隣の村の尾高惇忠という、

10ぐらいしか歳は離れてないが、

非常な秀才なのだ

10代の後半、既に人の師として

教えを授ける人だったが、

この人から教育を受けたのだ。

この尾高惇忠が人生における

家族以外の最初の恩人であるのだ

この恩人の妹さんをその後

お嫁さんにもらっているのだ

非常に縁の深い人なのだ

尾高惇忠は富岡製糸場の

初代工場長であるのだ

渋沢が大蔵省の高級官僚となり

この富岡製糸場の設立の担当者、

事務担当者になりた時に、

初代工場長としてこの

尾高惇忠を選んだのだ。

そのような関係なのだ

さらに、お父さんは栄一に武道、

そちらの方も授けるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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