どうも村田です
3.隣りに『陸軍憲兵学校』
があり、通称「中野憲兵学校」
と呼ばれていた。
同校卒業生の中に自分らが
世間でいう「中野卒業生」
と勘違いしていた者がいたこと
を公安調査庁に入ってから知った。
一九四〇年八月正式に陸軍省
直轄陸軍中野学校となってから、
学生の種類が替わり、
陸士出身者の甲種学生はなくなり、
乙種学生が五期まであった。
主体は丙種学生
(幹部候補生出身将校。十期まで)
と戊種学生(下士官。八期まで)で、
他に遊撃戦専門の二俣分校
(俣四まで)があった。
私が所属した第三期乙種学生
(三乙)は、一九四四年一月
から九月初めまで約八カ月間
(二乙は一年三カ月間)で二八名。
陸士二三名
(五四期四名、五五期一九名)、
特科五名
(主計二名、軍医二名、獣医一名)
であった。
ところが中野作家達の乙種学生
に関する認識が乏しく全部
陸士出身と思い込んでいるものが多い。
主任は後の
フィリピン第一四方面軍防諜班長
の谷口義美少佐で、戦後俣一の
小野田寛郎少尉を偽の命令書で
ルバング島から救出。
戦死者は六名(南方四名、沖縄二名)
で、最初の戦死者前田主計中尉は、
卒業後1か月足らずに南方赴任の
搭乗機が米軍機に襲われて戦死。
私の期は、①北方班=ロシア語、
②支那班=支那語、③南方班=英語
の3班に分かれ、
私は陸士時代ロシア語だったが、
南方戦線を希望して南方班を
選択し英語を学んだ。
結果的に関東軍特務機関に行かず
同期の岡田秀雄は秋草関東軍
情報部長の下にいたが、
八年間シベリア抑留帰国後
陸上自衛隊に入り、中央調査隊長
で退職した。
所属別に概観すると、
関東北方班三名、支那班三名、
南方班六名、国内軍管区一二名
(本土五名、沖縄四名、台湾三名)、
学校本部二名、陸軍省軍事資料部
二名。因みに遊撃戦幹部要員教育
で郷里赴任者は私一人だった。
4.短期間で二五以上の軍事学
と普通学をこなすため、座学が
多く演習が少なかった。
秘密戦特有の術課の他に、普通学、
精神教育と皇国史観に基づく
国体学という中野独特の学科が
あった。
五一五事件の被告・吉原正巳教官
が東大の平泉澄教授に弟子入りし
皇国史観を学んだ後、
中野学校に招かれて国体学を担当し、
楠公社を建立して学生は毎朝参拝。
南北朝史、神皇正統記、講孟箚記
(こうもうさっき)
(吉田松陰が野山獄中で囚人に教えたもの)、
水戸学などを学び、特に忠君愛国の
モデルとして「楠公精神」を学んだ他、
学生が任務遂行上守るべき信条として
又同志的団結強化のため「誠」
の心を鍛錬。
「条理極まる所これ誠なり」といい、
軍人勅諭五力条の精神は誠で
締めくくられていた。
都内雑司が谷墓地にある元後方
勤務要員養成所長・秋草俊少将の
墓には遺骨が無く、墓碑銘は
「誠」である。
同少将は一九四九年ソ連
ウラジミール監獄病院で死亡した。
政治謀略のモデルはソ連に於ける
明石元二郎大将と中東の
「アラビアのロレンス(英国陸軍大佐)」
であり、
「満洲のロレンス」といわれた
土肥原賢二大将は「謀略は誠なり」
と喝破した。
『ロシアの良心』といわれた
親日家の元KGB対日防諜責任者
アレクセイ・キリチェンコは、
「土肥原将軍が極東軍事裁判で
なぜA級戦犯となって処刑された
のか分からない」と嘆いた。
明石大将は百万円(四百億円相当)
の工作資金中残金二七万円を
領収書を添えて返却して模範的
会計報告を行い、
最期に短期の台湾総督であったが
立派な業績を遺した上、福岡で
病死する時遺骨を台北に埋葬せよ
と遺言して日台間の絆を深めた。
実は陸士時代既に私は個人的に
皇国史観を学び、誠を任務遂行上
の信条としていた。
浜松の現地戦術の時に攻撃重点
を教官に質問された時に、
「誠の心で考慮した上で岩屋観音
に指向する」と回答したことが、
同期生の間で伝説となっていた。
偶然に中野学校教育と合致して
いたから、中野は我が家に帰った
ように居心地が良かった。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる