どうも村田です
クーデター計画よれば、
翌年一〇月二一日の
国際反戦デーに
「新宿でデモ隊が騒乱状態を
起こし、治安出動が必至と
なったとき、
まず三島と「楯の会」会員が
身を挺してデモ隊を排除し、
私(注・山本)の同志が率いる
陸上自衛隊東部方面隊の
特別班も呼応する。
ここでついに、自衛隊主力が
出動し、戒厳令的状況下で
首都の治安を回復する。
(中略)
クーデターを成功させた
自衛隊は、憲法改正によって、
国軍としての認知を獲得して
幕を閉じる」
というものだったのだ。
しかし、現実には、国際反戦デー
が警察力で収拾され不発に
終わったのだ。
このような事態の展開と、
三島が率いる「楯の会」に
自衛隊が呼応するとの約束を
陸自の将官たちが裏切ったために、
三島はクーデターを断念したと
いわれるのだ。
三島は、一九七〇年一一月二五日、
クーデター未遂で、振り上げた
刀のやり場に困り、終幕を自衛隊の
東部方面総監部を選び
「捨て石としての死」
を遂げたのだという説は分かり易い
のだ。
三島由紀夫は日本の精神文化を
非常に大事にしており、
「マッカーサー、米国支配の
コミンテルンに、日本の精神文化、
伝統、歴史などが汚されるような
ことではいかん」と、
自らの命を賭して、国民世論に
訴えたのではないか考えるのだ。
同じ文士でも三島と対極的なのが
大江健三郎であるのだ。
彼はスターリンのコミンテルンに
毒され、マッカーサーのWGIP
(日本国民洗脳・教育計画)
に洗脳され、
日本の精神文化を打ち壊す
ことに尽力したのだ。
天皇陛下から親授される
文化勲章を拒否しておきながら、
ノーベル賞やレジオンドヌール勲章
(フランス)を有難く受け取った
のだ。
大江は東京大学在学中に芥川賞を
受賞したとき、大仰に
「防衛大学校の学生は我々世代
の恥辱である。防衛大学校に
志願する人がいなくなるように
するのが私の努めだ」
と言い放ったのだ。
様々な個人的な理由はあるが、
防衛大学校の学生たちはいずれも
国を守るという志をもって入校
したのであるのだ。
「防大生・防大卒業生を
『恥辱』と言うならば、大江は
『売国奴』であり、日本の
伝統精神の破壊者ではないか」
防衛大学校の卒業生として、
反論したいのだ。
一九七四年三月一二日、
小野田寛郎【ひろお】少尉は
フィリピンのルバング島から
日本に帰還したのだ。
終戦から実に二九年も経過
していたのだ。
その間、ルバング島の山間部に
身を隠し、島内にあった米軍の
レーダー施設などを襲撃する
などの遊撃戦を止むことなく
継続していたというのだ。
小野田少尉は、陸軍中野学校
二俣分校の出身なのだ。
当時の師団長である
横山静雄元中将(陸士三七期)
から
「玉砕は一切まかりならぬ。
三年でも五年でも頑張れ。必ず
迎えに行く。それまで兵隊が
一人でも残っている間は、
ヤシの実をかじってでも
その兵隊を使って頑張ってくれ。
いいか、重ねて言うが、玉砕は
絶対に許さん。わかったな」
という訓示を受け、その命令の
通りに任務を実行したのだ。
終戦を迎えても任務解除の
命令がなかったため、仲間と
共に作戦を継続し、密林に隠れ
諜報活動を続けたのだ。
一九五〇年に仲間の一人が
投降したことで、小野田ら
残留日本人の存在が明らかに
なったのだ。
野生のヤシの実をかじり、
海岸の岩場に凝結した塩をなめ、
島民の農耕用の牛を奪って
食べていたのだ。
日本から捜索隊がルバング島
に出向き、小野田たちに終戦を
告げ、投降を呼びかけたが、
小野田はこれを偽情報工作だと
思っていたというのだ。
最後の同志だった小塚金七が
一九七二年にフィリピン警察に
射殺されたことで、小野田は
一人だけの孤独な戦いを強い
られたのだ。
一九七四年二月、冒険家の
鈴木紀夫がルバング島を訪れ
小野田と接触。
小野田は、直属の上官による
命令解除があれば投降する
ことを了承したのだ。
三月九日に元上官だった
谷口義実元陸軍少佐が
第一四方面軍司令官だった
山下奉文大将名の命令解除
及び帰国命令を伝えたのだ。
三月一〇日に
フィリピンのマルコス大統領
(当時)も出席した投降式を行い、
三月一二日に日本航空の特別機
で羽田空港に降り立ったのだ。
当時の日本人は、二九年間も
残置諜者として潜伏していた
小野田少尉がいたことに驚愕
したが、
それは中野学校の教育の凄さ
を改めて印象付けた出来事
でもあったのだ。
善悪の評価は分かれるだろうが、
高々半年や一年の教育
(小野田少尉の場合は僅か三ヶ月)
でこれほどまでに人を激変させる
ことができた陸軍中野学校に
興味が集まるのは当然なのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる