どうも村田です
注目すべきは、実は、
山崎機関には中野出身者が
存在したことなのだ。
産経新聞の記事では
次のように報じているのだ。
〈資料の持ち主だった元情報将校
とは別に、「山崎機関」に参加した
元情報将校、
武田一郎氏
(二〇一〇年の時点で九一歳)=仮名=
が匿名を条件に取材に応じたのだ。
武田氏は「ソ連担当の責任者だった」
と語ったのだ。
武田氏は諜報分野の軍学校、
陸軍中野学校出身。
関東軍司令部の情報将校を務めたが
昭和二〇年、外交官を装って潜入した
ソ連で終戦を迎えて抑留。
帰国後の二二年、厚生省援護局からの
斡旋(あっせん)でGHQ入りしたのだ。
ソ連情報を得るために引き揚げ者を
尋問して調書を作成したと話す武田氏。
「尋問は強制ではなく、協力者には
謝礼を出した」とする。
ソ連の戦略地図を作製した。
「(抑留で) ソ連からさんざん
いじめられたので(対米協力に)
抵抗感はなかった。
なにより報酬がよかった」
と振り返る。
山崎氏の下には、武田氏のような
数人の元情報将校があり、元抑留者
などから情報収集して戦略地図を
作っていたようだ〉
記事では元情報将校が、
「引き揚げ者を尋問して調書を作成した」
とあるがそれだけで は不十分であろう。
元情報将校たちは、参謀本部などで
手掛けた地図などを終戦のどさくさの
中で密かに持ち出し、隠匿していた
可能性があるのだ。
さもなければ、短期間に
ウイロビー少将に戦略地図と解説書
などを提出できるわけがないと考え
られるのだ。
山崎機関と似たような話
蓄積した情報の持ち出し・隠匿は
ドイツ国防軍でも行われたのだ。
山崎機関では、地理情報だけであったが、
ドイツ国防軍ではより広範なソ連に関する
情報を持ち出したのだ。
次はそれについて書くのだ
帝国陸海軍は、大東亜戦争の敗戦とともに
「解体」を余儀なくされたのだ。
従って参謀本部 第二部(情報)、特務機関、
陸軍中野学校などの情報機関・要員も
すべて失われ、情報・資料もほとんど
燃やされてしまったのだ。
日本軍とは対照的に、ドイツ国防軍は、
卓越した見識を持つ一人の陸軍大佐
ライン ハルト・ゲーレンが
戦後の展開を予測して、独断で、
意図的・隠密に膨大な量のソ 連
軍関連情報を隠匿したのだ。
ゲーレンはこれを取引材料として、
アメリカにドイツ国防軍の諜報要員
(ナチスに絡む戦争犯罪者を含む)
の免責を認めさせ、
国防軍の情報機関を私的情報機関
ゲーレン機関に姿を変えて温存し、
その後復元することに成功したのだ。
ゲーレンの対米取引は、敗戦国ドイツが
戦勝国アメリカに仕掛けた一種の工作
であるのだ。
以下、これについて書くのだ
第二次世界大戦中に対ソ連諜報を
担当するドイツ陸軍参謀本部東方
外国軍課の課長だった
ラインハルト・ゲーレン大佐は、
情報分析の結果、戦局が最終局面に
あると結論付け、
そのことをヒトラーに報告したが、
独裁者の逆鱗に触れて解任された
のだ。
ゲーレンは
「祖国に最善を尽くすこと」
を基本方針として
「将来(戦後)のドイツ政府が、
いつの日にか、われわれの当時の
スタッフ(諜報要員など)を中核的な
エキスパートとして情報組織を再建
するその日のために、努力する」
ことを決意したのだ。
そのための取引材料として、
東方外国軍課で取集した膨大な
ソ連軍事情報(飛行場、発電所、
軍需工場、精油所等、
マイクロフィルム化したものを含む
を二つに分け、防水ケ ース五〇個に
詰め込み、バイエルンの森の中に
別々に土の中に埋めたのだ。
ゲーレンは、ドイツが降伏した
二週間後に、部下とともに、
ソ連軍占領地を避け、
アメリカ軍の占領地域で投降し、
身柄の保護を求めたのだ。
ゲーレン配下のドイツ諜報員は、
戦時中に強制収容所の赤軍捕虜に
対して、ドイツ側に協力的で無い者
への食糧配給の停止や尋問の際に
拷問を行うなど、
残忍な仕打ちが問題視されていた
にもかかわらず、アメリカへの
密入国に成功したのだ。
このアメリカ政府の判断には、
CIAの前身であるOSS(戦略情報局)
の創設者のウィリアム・ドノバンや
後にC IA第五代長官に就任する
アレン・ダレスなどの思惑
ゲーレン以下ドイツ諜報員と収集
した情報の活用があったといわれる
のだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる