どうも村田です
一九五一年、
キャノン機関は作家の
鹿地亘にソ連スパイの嫌疑を
かけて長期間にわたり拉致監禁し、
転向してアメリカの二重スパイに
なることを強要した(鹿地事件)のだ。
翌一九 五二年一二月、鹿地は
神宮外苑において解放され、
事件が明るみに出たのだ。
それに先立ち、 キャノンは鹿地事件
の失敗により、一九五二年三月、
アメリカ本国に帰国しキャノン機関
は消滅したのだ。
鹿地事件が明るみに出たことにより、
キャノン機関の名が広く世に知られる
ようになると、
一九四九年の国鉄三大ミステリー事件
(下山事件・三鷹事件・松川事件)への
関与も疑われるようになったのだ。
戦後、GHQの情報部門を統括する
参謀第二部(G2)部長の
チャールズ・ウイロビー 陸軍少将
(以下「参謀部第二部長・
ウイロビー陸軍少将」)
の下に旧陸海軍の将軍・提督・大佐を
中心にした幾つかの情報機関が誕生した
のだ。
これら情報機関の情報収集努力は当初
「戦犯容疑者に関する情報」
であったが、
スターリンの野望が明らかになるにつれ
「ソ連・中国・朝鮮の情報」さらには
「ソ連に使嗾された日本国内の
共産党勢力の動向」に移っていったのだ。
かつての敵であるアメリカに協力する
将軍・提督の思惑は
「公職追放の身で肩身の狭い思いで
過ごす中、
GHQを通して間接的に国家のお役に
立つことができる。
現実問題としては、GHQに協力すれば、
生活の糧も得られるほか、何よりも戦
争犯罪人にならずに済む」
などと考えたのではあるまいか。
キャノン機関は中野出身者を重用したが、
参謀部第二部長・ウイロビー陸軍少将
傘下の情報機関でも実務者レベルでは
中野出身者が関わっていた可能性がある
のだ。
事実、後で述べ る山崎機関の中に
中野出身者――関東軍司令部の
情報将校を務めたが
一九四五年、外交官を装って潜入した
ソ連で終戦を迎えて抑留された経歴
――がいたことが確認されているのだ。
以下、参謀部第二部長・
ウイロビー陸軍少将の下で働いていた
情報機関について述べるのだ。
河辺機関
河辺虎史郎陸軍中将(陸士二四期)
が設立した機関で、
参謀部第二部長・ウイロビー陸軍少将
に主に戦史編纂で協力したのだ。
その経緯は
『秘録・日本国防軍クーデター計画』
(阿 羅健一著、講談社)
に次のように書かれているのだ。
〈ウイロビーは参謀部第二部に五十人
からなる歴史課を設け、メリーランド
大学の歴史学教授ゴードン・プランゲ
を歴史課長に任命し、改めて歴史編纂
を進めたのだ。
編纂が進むうち、記述を裏付ける
ために、日本から見た戦史編纂は
必要になり、昭和二 十二年三月、
そのための人選を有末清三中将に
相談してきたのだ。(中略)
その結果、参謀次長だった
河辺虎四郎中将を長にして、陸軍の
有末中将と中村勝平少将が海軍から
加わり、
同じように作戦課長を務めていた
服部卓四郎大佐と大前敏一大佐が
陸軍と海軍から主任に 就く、
という合意ができるのだ。
その案を受けたウイロビーは、
東京大学経済学部教授だった
荒木光太郎を責任者に任命し、
河辺虎四郎を有末や中村とともに
顧問とし、主任は日本案通りとして
発足させることにしたのだ
執筆に当たる編纂官は、陸軍では
史実調査部にいた人たちを中心に、
杉田一次大佐、原四郎中佐、小松演少佐、
曲寿郎少佐が選ばれ、
遅れて加登川幸太郎中佐、太田庄次中佐、
藤原岩一中佐、田中兼五郎中佐が加わる〉
河辺中将は終戦時、陸軍参謀次長の身で
連合国と会談するため全権としてマニラ
に赴いて終戦・占領・進駐の下調整を
行ったのだ。
このことが連合軍(アメリカ軍)との縁
となり川辺機関の設立に繋がったので
あろう。
マニラに赴いた河辺は、極東米軍の
情報部長だったウイロビー少将と
出会ったのだ。
ウイロビーは敗軍の将である河辺に
対して武士道精神をもって接した
というのだ。
河辺機関へのGHQからの援助は
一九五二年で終了したため、河辺機関
の旧軍幹部(佐 官級)はG2の推薦を
受けて保安隊に入隊しているのだ。
河辺機関はその後、「睦隣会」に
名称変更した後に、内閣調査室の
シンクタンクである
「世界政経調査会」になったのだ。
そのため、初期の内閣調査室には
河辺機関出身者が多く採用されて
いるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる