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絶賛しとったんじゃ

どうも村田です

キャノン機関は

本郷の旧岩崎邸に

置かれたのだ。

畠山清行氏の

「秘録陸軍中野学校」

(新潮文庫)によれば、

キャノンは、本郷ハウスの

中にホームバーを作って

度々宴会を開き、

女優の京マチ子をホステス役に、

安井東京都知事、村井順内閣

調査室長、元情報局総裁の

伊藤述史、斎藤昇国警長官

などを招いて、

当時日本人の手に入らなかった

飛び切り上等の洋酒を振舞ったり

して戦犯情報を集めたというのだ。

物資の乏しい時期に、

日本国内情報の核心にアクセス

できる日本人たちを抱き込んで、

戦犯や共産主義勢力の動向に

関する情報など、占領政策に

役立つ情報を集めていたのだ。

キャノンにとって、

諜報のエキスパートである

中野学校出身者は喉から手が

出るほど欲しい人材だった

はずなのだ。

復員者名簿の中から特務機関

関係者を見つけ出すと、帰還船が

到着する港で担当者が待ち受け、

目をつけた人物を拘束し、

「このまま戦犯として監獄に

入るか、協力して不自由のない

暮らしをするか」と恫喝して、

半強制的に協力を迫ったのだ。

着の身着のままの帰還者にとって

「協力すれば、充分な

給与も食料も出る」

という条件は魅力だったのだ。

一方で、中野出身者は

「中野は語らず」

という守秘義務が不文律として

あり、当事者にとっては、もがき

苦しむ事態であったことだろう。

キャノン機関の中で活躍した

中野出身者について話すのだ。

畠山清行氏は中野出身者として

武林満(本名関口勇)を上げて

いるのだ。

それによれば山口は戦前の

中国における諜報体験

( 畠山氏によれば、山口は、

蒋介石直属の暗殺団のメンバー

だったという)を生かして

「中国及び中国人の現況」

という膨大な報告書をものにし、

中国の裏表を余すところなく

書き上げたというのだ。

この報告書について、キャノン

中佐の秘書的な役割をしていた

韓国人の韓道峰は、

「あれだけ中国をよく知り、

中国を書きつくしたものは

他にないだろう。まことに

惜しい文献で

(GHQ提出後行方不明)、

さすがに中野学校出の秀才

だと感心した」と、激賞した

というのだ。

当時すでに、米ソの対立が

激化しつつある状況で、

朝鮮半島の緊張も高まっており、

キャノン機関は、主に

北朝鮮情報の収集やソ連の

スパイ摘発などに当たって

いたのだ。

キャノンは、こんな山口を

見込んで北朝鮮に潜入し

ソ連の進出状況の偵察を命じた

というのだ。

山口は一九四八年十一月に

北朝鮮に潜入し、清津、元山、

平壌などを偵察し、

一二月末に帰国して

「元山にソ連船二隻が

入っていること」などの

情報を報告したのだ。

山口はこの際、朝鮮戦争の

兆候となる

「超一級(ウルトラ)情報」

をキャノンに伝えていたのだ。

曰く

「元山に十日ほどいるうちに、

北朝鮮のトラックが、機械、

あるいは武器と思える荷物を、

南へ南へと輸送しているのを

幾度も見た」と。

この報告は、キャノンから

ウィルビーを経て、当然

マッカーサーにも伝えられた

はずなのだ。

マッカーサーがこの情報の

重大性に気付いていれば、

直ちにトルーマン大統領に

対して

金日成の南進攻撃(朝鮮戦争)

という野望を警告し、事前に

これを阻止する手立てを講じる

ことができた可能性があるのだ。

このことについて、畠山氏は

こう書いているのだ。

諜報は、とることもむつかしい

が、その真偽を判断すること

の方が一層難しいのだ。

おそらくマッカーサーは、

その判断を誤ったか、

それとも北朝鮮軍だけでは

なにもできない、

と たかをくくったのか、

その点はわからないが、

その翌々年の

一九五〇年六月二五日、

朝鮮戦争が起こって、山口の

情報の全く正しかったことが

わかった。

そこでキャノンも、

山口を呼んで

『あの情報は、まったく価値

のあるものであった。それにも

かかわらず、

上の連中が取り上げなかった

のは、誠に残念だった』と、

山口をねぎらった。(中略)

キャノンは後々まで、

『さすがに、中野学校

出はすばらしい』と、

山口の諜報技術を絶賛していた

のだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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