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色濃く反映されとんじゃ

どうも村田です

「皇統護持」

を考えていた人物が

陸軍大臣秘書官の

廣瀬榮一中佐

(陸士四三期、後に陸自

北部方面総監・陸将)

であったのだ。

廣瀬はたまたま

北白川宮永久王殿下

(駐蒙軍参謀の時、不時着

して来た戦闘機に巻き込まれ

薨去(一九四〇年九月))

と陸士・陸大の同期生で、

格別親しい間柄だったのだ。

廣瀬は、占領軍によって

天皇家が断絶させられた場合、

代わりの天皇家を継ぐ人物

として

北白川家第五代当主・道久王

(当時は学習院初等科に

通う7歳の少年)を擁立する

構想を持っていたのだ。

道久王は明治天皇の曾孫

にあたる血脈であったのだ

八月一四日、中野学校出身の

山本政義少佐(一丙)、

猪俣甚弥少佐(一丙)、

日下部一郎少佐(一丙)、

阿部直義少佐(一丙)、

太郎良定夫少佐(二丙)

などが廣瀬を訪ね

「皇統護持」について訴えた

のだ。

彼らは、

「あんた方現役の軍人は、

平素は偉そうなことをいっとき

ながら、いま無抵抗で降伏するのか。

われわれは、このままでは

おさまらぬ。一戦をやる。

あんたがたはなっとらん!」

と息巻いたのだ。

廣瀬は中野出身者をそれほど

信頼しておらず彼らを

「皇統護持」に巻き込もうとは

考えていなかったのだ。

むしろ、

「彼らを放っておいたら、

東京でひとあばれしそうなので、

口実を与えて田舎へ行かせた

方が無難だ」と考えたのだ。

廣瀬は、一計を案じ、日下部らに

「君たちは田舎へ行け。田舎へ

行って、いざというときは、僕は

北白川の若宮さんをかっさらって

いくから、

その時に生活できる状態を、

どっかに作ってくれ。頼む。」

と言ったのだ。

廣瀬は行き先の「田舎」として、

新潟県六日町の今成拓三氏をあげ、

紹介状を書いてくれたのだ。

日下部たちはこの言葉を

重く受け止め

「廣瀬中佐に、北白川若宮殿下

の庇護を頼まれた」

と理解したのだった。

無垢というべきか、中野出身者は

すぐに行動を起こしたのだ。

猪俣少佐、日下部少佐ほか

3人はトラックに軽機関銃

などの武器の他、野営道具、

寝具、自転車、食料を積んで、

新潟県六日町に向かったのだ。

六日町に到着すると先客がいた

のだ。

それはビルマの国家元首で、

日本へ亡命してきた

バー・モウだったのだ。

六日町と今成拓三氏にとっては、

二人目の要人・道久王の受け入れ

は重荷であったろう。

その後、六日市での

「皇統護持」の責任者は猪俣が

就いたのだ。

猪俣はバー・モウ潜伏援助の

巻き添えで道久王の潜伏が露見

することを恐れ、内密に別行動

をとることにし、

広島市で道久王の架空の戸籍を

取得し、潜伏先を確保したのだ。

このような曲折はあったが、

GHQが天皇の生命・地位を

脅かすことは無く、

猪俣らは

「皇統護持」

のための実行動を起こす必要は

なくなったのだ。

GHQは新潟県に潜伏していた

バー・モウを逮捕し、また猪俣

も新津市で逮捕されるのだ。

猪俣は逮捕の危険を知らされて

いたが、疥癬に冒され身動きが

取れない状態だったのだ。

厳しい取調べが行われ、猪俣は

死刑を覚悟していたが、意外

にも半年後には釈放されたのだ。

巣鴨リズンで同室だったのは

貴族院議員・小磯内閣顧問

だった正力松太郎であったのだ。

「皇統護持」

作戦のような次元の話は、

内閣総理大臣をはじめ

陸・海軍、外務省、内務省の

要路が直接係るべき重要案件

であるのだ。

敗戦の混乱期とはいえ

中野出身の少佐や大尉レベルが

独断で企画立案・実行する

というのは驚きなのだ。

この件は、陸軍中野学校の

教育が色濃く反映された

事案と思われるのだ。

良し悪しは別として、

「皇統護持」

の関わった人たちの活動は

中野卒業生としての面目躍如

たるものがあるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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