どうも村田です
第一護郷隊は、
名護岳、多野岳、久志岳、
乙羽岳を拠点として、遊撃戦に
備えたのだ。
第一護郷隊は六月二五日に
沖縄本島における組織的な
戦闘の終了後には解散するが、
村上隊長らは数度の下山勧告も
拒否し、名護岳付近に潜伏した
のだ。
一九四六年一月二日、
日本軍将校が第三二軍の作戦参謀
であった八原博通大佐の手紙を
携えて説得した結果、翌日下山
したのだ。
八原自身は、その時点では捕虜を
解かれ本土に帰郷していたのだ。
第二護郷隊は、恩納岳と石川岳を
拠点として遊撃戦に備えたのだ。
沖縄中部から逃げ延びてきた
飛行場部隊などが合流し、当初の
約三九〇名から千人規模に膨れ
上がったのだ。
恩納岳山頂付近に部隊の司令部や
機関銃壕、また中腹には野戦病院や
兵舎などが設営されていたが、
徐々に追い詰められ、野戦病院は
負傷した少年兵などで溢れていた
という証言もあるのだ。
第二護郷隊は七月一〇日に久志岳
あたりまで北上し、第一護郷隊と
合流したのだ。
岩波隊長は秘密遊撃戦に移行する
ことを宣言し、七月一六日には
部隊を解散して隊員を帰還させ、
情報収集や食料調達を続行させたのだ。
しかし、地元住民を通じて米軍の
下山勧告もあり、一〇月二日、
少年兵たちは中隊長らとともに
投降したのだ。
戦後、第一護郷隊の村上と
第二護郷隊の岩波の二人は、
護郷隊で命を奪われた少年たち
の遺族を訪ね歩き、
あるいは本土での就業を支援する
など、元少年兵と交流を続けたのだ。
護郷隊遺族の証言によると
村上の最後の沖縄訪問は
二〇〇二年で、
八〇歳を超えた村上 は、自ら建立した
慰霊碑の前で堰を切ったように号泣
したというのだ。
村上は、元少年兵たちと交流を続け、
慰霊の樹木を送り、どれほど遺族から
厳しい言葉を向けられても慰霊の
訪問を続けたが、二〇〇二年の慰霊が
最後の沖縄の旅となったのだ。
護郷隊の命令とはいえ、住民が避難
するのに必要な橋をあらかじめ破壊
したこと、命令で故郷の家々を
燃やしたこと、
仲間への制裁をしたことなどの
記憶は、少年兵の心に深刻な
トラウマとなり、総じて護郷隊に
ついての長い沈黙をもたらすことに
なったのだ。
このような過酷な運命を背負った
のは、沖縄の少年兵だけではなく、
中野出身者も同じであったのだ。
諜報・工作の任務に従う中野出身者
は、国家非常時には、自らの命を
投げ出すような過酷な任務や護郷隊の
指揮官のような冷酷非情な使命を
課せられるのだ。
終戦時に中野出身者が関わった
逸話を二つ紹介するのだ
八月十五日、陸軍省軍務局の
椎崎二郎中佐(陸士四五期)、
畑中健二少佐(陸士四六期)、
近衛第一師団参謀・古賀秀正少佐
((陸士五二期、東條元首相の女婿)、
航空士官学校の 上原重太郎大尉
(陸士五五期)
ら四名が中心になり、詔勅が録音
されたレコード盤を奪取・ 破壊し、
日本の降伏を阻止しようとしたのだ。
いわゆる「宮城事件」と呼ばれる
のだ。
中野卒業生の山本政義少佐(一丙)と
太郎良定夫少佐(二丙)は、八月十二日、
本土決戦準備のため九州に出張する途上、
参謀本部の日下部一郎少佐(一丙)に
立ち寄り、ポツ ダム宣言の受諾・
終戦を知ったのだ。
二人は日下部に案内され陸軍将軍務局で
畑中健二少佐(宮 城事件首謀者の一人)
から
「中野学校の連中を連れて、
ぜひ行動を共にしてもらいたい」
と要請されたのだ。
これには、中野卒業生も強い関心を
抱き、山本政義少佐(一丙)、
日下部一郎少佐(一丙)、
阿部直義少佐(一丙)、太郎良定夫少佐
(二丙)などいわば
中野卒業生の代表格が 集まり、
激論を戦わせたのだ。
その結果、
「我々は秘密戦士であり軽挙妄動を慎む。
この場は政府並びに軍首脳部の決定に
従って、後図を策すべきである」
との合意に至ったのだ。
そこへ血の気の多い矢吹尚文大尉
(三丙)が現れ、
「我々軍人の一人でも生き残って
い るうちは、戦うべきである。
あなたたちのような中野学校の
先輩を持ったことが残念だ」
とぶりぶり怒って帰っていった
というのだ(山本政義少佐談)。
クーデター勢力の意向を汲む
矢吹大尉は玉音放送の妨害を企てた
のだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる