どうも村田です
それが義烈空挺隊の
「義号作戦」であるのだ。
この空挺部隊には、
奥山道郎【みちろう】大尉を
隊長とする第一挺進団
第一連隊第四中隊(以下、奥山隊)
が選ばれ、
中野学校出身者一〇名
(石山俊雄少尉(6丙)、辻岡創少尉(6丙)、
梶原哲己少尉(俣1)、渡辺裕輔 少尉(俣1)、
原田宣章少尉(俣1)、棟方哲三少尉(俣1)、
阿部忠秋少尉(俣1)、 熊倉順策少尉(俣1)、
酒井武行軍曹(6戊)、菅野敏蔵(6戊)軍曹)
も参加することになったのだ。
「義号作戦」に中野出身者が参加した
のはパレンバン落下傘部隊降下作戦で、
中野学校出身の星野哲一少尉(乙II短)
などが活躍した影響も大きかったのだ。
中野出身者らの任務は、
サイパン島に強行着陸した後、
可能な限りジャングルに潜伏して
米軍飛行場の状況を継続報告すること
(いわゆる残地諜報)、
それが難しい場合はゲリラ戦を展開
して少しでも長く敵飛行場の使用を
妨害することだったのだ。
ただ、サイパン島は地形から見て
長期間潜伏することが難しく、
残地諜報は無理で、結局は奥山隊の
空挺部隊と玉砕覚悟で一緒に戦う
可能性の方が高かったのだ。
決行日が一九四四年一二月二四日に
決まるが、二日前の訓練で飛行隊の
一部の隊員の技術が訓練不足と判断
されて延期されたのだ。
また、米軍による硫黄島への爆撃が
激化して、硫黄島を中継基地として
利用することが困難になったのだ。
年を明けても出撃命令は出ず、
奥山隊らは生殺し状態で日々悶々と
過ごしていたのだ。
一九四五年二月一九日、
米軍が硫黄島に上陸し激闘が繰り
広げられると、義烈空挺隊の任務は
硫黄島に対する攻撃に切り換えられた
のだ。
三月二〇日ごろを目安に硫黄島
飛行場を攻撃する準備をするよう
伝達があったのだ。
これは、事実上の
「大量特攻作戦」に他なら
なかったのだ。
中野出身者らは悩んでいたのだ。
硫黄島のような
〝逃げも隠れもできない〟
小島では、遊撃戦も残地諜報も施す術
がなかったのだ。
彼らは一様に
「遊撃戦も残置諜報も難しく犬死に
なるだけではないか。
何のために中野出身者が
義烈空挺隊に選ばれたのか?」
という思いが募ったのだ。
だが、「中野出身者は臆病だ」
と言われるのも恥であり、また、
彼らが「辞退」することになれば、
義烈空挺隊の団結が損なわれるとの
結論に至り、奥山隊と共に行動する
ことにしたのだ。
ところが、三月一七日、硫黄島の
日本軍が玉砕してしまい、再び
作戦は中止となったのだ。
義烈空挺隊は、三回目の作戦目標の
変更を迫られ、次の作戦を沖縄
飛行場の攻撃に切り替えられたのだ。
硫黄島玉砕直後の四月一日朝、
米軍は守備の薄い沖縄本島中西部で、
陸軍の 第7・第96歩兵師団と海兵隊の
第1・第6師団が上陸作戦を開始したのだ。
米軍は徐々に地歩を広げ、奪取した
中、北の両飛行場の整備を促進した
のだ。
このため、日本陸軍の第六航空軍は
中・北両飛行場制圧のために
義烈航空隊の起用(「義号作戦」と命 名)
を大本営に要請したのだ。
しかし、梅津参謀総長は百数十名もの
若い命を犠牲にする特攻空挺作戦を
軽々に認可することはできなかった
のだ。
大本営は第六航空軍司令官の
菅原道大中将による度重なる要請に負け、
ようやく「義号 作戦」の準備を命じたのだ。
しかし、この時期に「義号作戦」を
実施するタイミング(戦機) は去りつつ
あったのだ。
沖縄防衛の任務を担う第三十二軍の
五月四日から五日にかけての総反撃は
失敗に終わり、
「義号作戦」により戦勢(戦いの形勢)
を変える契機を作為できる可能性は低下
していたのだ。
「義号作戦」は、余り意味のない
特攻になる可能性が大であったのだ。
義烈空挺隊は沖縄攻撃に先立ち、
茨城県つくば市の西筑波飛行場から
熊本市郊外の健軍飛行場基地に移動
したのだ。
じつに三度目の「引っ越し」だった
のだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる