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移行することになったんじゃ

どうも村田です

ジャングルの中での

遊撃戦を命じられた

高砂族の兵士たちは

「靴を脱がしてくれ」

と訴えたのだ。

「靴がないと足をヒルに食われ、

棘が刺さるじゃないか」

と言うと、

「いや、裸足で大丈夫だ」

と答えたのだ。

重たい軍靴を脱ぎ捨てた

高砂族の兵士たちは、裸足に

なってジャングルの中を身軽に

駆け回り、

足音も立てずに敵兵に

忍び寄って銃剣で倒していった

そうなのだ。

このときの様子を記した

「東部ニューギニア方面に

おける遊撃隊の参考」

というレポートが参謀本部に

届けられ、

それがきっかけとなり、

一九四三年八月、参謀本部は

正規の武力戦を補う目的で

陸軍中野学校に

「遊撃戦闘教令」

の起案と

「遊撃隊幹部要員の教育」を

命じたのだ。

その一年後の一九四四年八月、

陸軍中野学校の二俣分校が

新設され、遊撃隊幹部要員の

専門教育が開始されたのだ。

さらに、参謀本部は、米軍が

日本に侵攻上陸するという

最悪のシナリオ(本土決戦)

を想定し、

本土内での遊撃戦を行うため

の教範「国内遊撃戦の参考」

の起案を中野学校に命じたのだ。

日本は、本土決戦が避けられない

状況にまで追い込まれていた

のだ。

一九四五年一月、

教範「国内遊撃戦の参考」

は完成し、印刷・配布され、

遊撃隊の幹部要員の養成が

本格的に行われたのだ。

四月には、中野学校を

群馬県富岡町の富岡中学校に

疎開させたのだ。

富岡は、天皇陛下や政府中枢

機能が疎開する予定になっていた

松代大本営の入り口を押さえる

要点だったのだ。

最終的には富岡を遊撃隊の

拠点にして、松代大本営を

防衛しようという腹だったのだ。

一九四五年八月一五日、

終戦となったが、戦後も、

連合軍占領下において、参謀本部の

密命があれば、遊撃戦が実施できる

よう準備に着手したのだ。

そのイメージは、イラク戦争

(二〇〇三年三月―一一年一二月)

後、

米軍占領下でスンニ派の武装勢力

がゲリラ戦を継続したのと同じ

なのだ。

たとえ国が降伏しても、

ゲリラ部隊が残っていれば、

占領国は延々と手を焼くことに

なるのだ。

聖断により、このような事態

にはならなかったが、日本軍は

そこまで想定し、準備していた

わけなのだ

「義号作戦」とは

大東亜戦争中の

一九四五年五月二四日に

沖縄戦で、日本陸軍が

「義烈空挺隊」を用いて行った

空挺特攻作戦のことなのだ。

この作戦が行われた経緯は

こうなのだ。

一九四四年七月、サイパン島

が失陥したのだ。

これにより米軍の大型戦略

爆撃機B―二九

(「超空の要塞」と呼ばれた)

の脅威が日本本土にまで及ぶ

ようになったのだ。

サイパン島から日本本土まで

二四〇〇キロメール、

B―二九の最大航続距離は

九〇〇〇キロメールなのだ。

日本本土まで飛行して爆弾を

落としてサイパンに帰ってくる

ことが十分可能なのだ。

サイパン島の飛行場名は、

日本軍占領時代の

「アスリート飛行場」

からアメリカ軍占領後は

「コンロイ飛行場

(コンロイフィールド)」、

続いて「アイズリー飛行場」

(アイズリーフィールド)

に改称されたのだ。

米軍は、飛行場の改修が終わるや、

直ちに日本本土への空爆を開始

したのだ。

大本営は、この事態を打破

するべく、「トビ」作戦の

実施を下達したのだ。

硫黄島を中継基地にして

(燃料を補給して)

サイパン島を空襲するための

準備が進められたのだ。

新海希典少佐(陸士五〇期)

率いる第二独立飛行隊の九機は、

硫黄島経由でサイパン奇襲を

決行し、

「タ」弾

(ナチス・ドイツの成形

炸薬弾に関する技術供与に

よって陸軍が開発した、

空対地親子爆弾

( クラスター爆弾)に

内蔵された成形炸薬弾頭を

持つ子弾の秘匿名称)

投下と機銃掃射により、

米軍飛行場は巨大な火柱が

上がり大混乱に陥ったのだ。

しかし、第二独立飛行隊の

損害も大きく、無事帰還

できたのは新海隊長機ほか

二機に過ぎなかったのだ。

その後も、「とび」作戦は

飛行第十戦隊(重爆)も加わり、

海軍航空隊とも共同で数次に

わたり実施されたのだ。

しかし、圧倒的に物量が

上回る米軍に対しては

決定的な打撃にはならず、

飛行場は整備され、

B―二九の進出も増加の

一途を辿ったのだ。

それに比べ、わが方の損害は、

戦果に比べあまりにも大きく、

優秀なパイロットが次々に

犠牲となったのだ。

結局、「トビ」作戦は中止され、

サイパン島に空挺部隊を投入して、

敵基地を一気に壊滅させる

「大量特攻作戦」

に移行することになったのだ。

それが義烈空挺隊の

「義号作戦」であるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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