どうも村田です
終戦後、
吉田茂は総理大臣になった
のだ。
吉田に対する諜報を行って
いた東はトラウマを抱え
苦悩していたが、
ある時、すべてを告白する
ことを決意し、吉田に会いに
行ったのだ。
そのとき、吉田は
「お互い、お国のためと思って
やったんだから良いよ。当時は
君が勝ったけれど、今は私が
勝ったね」と言って大笑いした
というのだ。
丙号工作」は、
金庫の鍵を解錠して、中に入って
いる重要書類をカメラに写すこと
であるのだ。
具体的にいえば、外国大使館に
忍び込み、秘密文書やコードブック
(暗号を解読するための辞書)
を小型カメラで撮影するのだ。
その実例については、
『幻の特務機関「ヤマ」』
(斎藤充功著、新潮新書)に書かれて
あるが、要約するとこうなのだ。
〈ヤマ機関の友源次郎は、
一九四二年一二月に、「長崎支店」
開設のため長崎市に赴任したのだ。
「支店」とは、偽装したヤマ機関
の分室のことなのだ。
商社という触れ込みで、「支店」
の店員約三十名(中野出身者主体)
は全員が偽名であったのだ。
長崎がヤマの工作拠点に選ばれた
のは、上海線、釜山線、香港線の
三航路の発着港にな っていたほどの
国際都市であったこと
加えて、海軍艦船を主に建造して
いた三菱造船所が置かれていたから
であったのだ。
重要目標は支那領事館、フランス
領事館、長崎ホテルで、容疑者は、
長崎カトリック関係者、
カトリック系の学校関係者、
米系邦人(グラバー)一味などで
あったのだ。
その活動状況の一端としては、
支那領事館の例では、日時を選択し、
午前一時から四時ころまでに
工作班が館内に潜入し、重要書類
金庫の錠を開けて、毎月一回
乃至二回文書を盗写し、
文書はその軽重を詮議したうえで
東京本店に提報した〉
「丁号工作」は、特殊場所における
マイク盗聴であるが、盗聴器が開発・
活用されるようになるのは、
戦後のことで、ヤマ機関による
盗聴の実例は見当たらない。
「戊号工作」封筒の開封と盗写
の実例としては、すでに述べた
友源次郎の「長崎 支店」の例でも、
支那・フランス領事館などの
重点目標やカトリック関係者などの
送受する封書の開緘を行っていた
というのだ。
「辛号工作」(工作員の潜入)、
「己号工作」(女中や書生を利用
すること)は、吉田茂のスパイだった
東輝次のところで述べたとおりなのだ
次に、大東亜戦争末期における
中野卒業生の活躍について見て
いきたいのだ。
日本海軍は、一九四二年六月の
ミッドウェー海戦で空母四隻を
失うなど、壊滅的な敗北を喫した
のだ。
続いて八月から始まった
ガダルカナル島での戦いでも、
日本軍は惨敗したのだ。
翌年二月まで続いたこの消耗戦で、
陸軍は夥しい戦死者・餓死者を
出したのだ。
加えて、日本海軍航空機の損害は
ミッドウェーの三倍に達したほか、
大量の輸送船や駆逐艦を失ったのだ。
ミッドウェー海戦とガダルカナル島
の戦いでは、多くの熟練パイロットを
失ったが、このことは計り知れない
戦力低下に繋がったのだ。
これら二つの戦いの敗北で、
開戦以降、快進撃を続けてきた
日本軍に影が差すようになり、
日本は防勢に転換せざるを
得なくなったのだ。
日本軍の劣勢・後退は続き、
一九四三年末、米国と
オーストラリアを結ぶ要域である
東部ニューギニアにおいては、
致し方なく遊撃戦を採用せざるを
得なくなったのだ。
中野出身者の将校と
下士官二一名が中心となり、
台湾の高砂【たかさご】族
一五〇名に対して速成の遊撃戦訓練
を行ったのだ。
高砂族は昔から台湾島に住んでいた
原住民族で、生まれたときから
山の中を裸足で駆け回って暮らして
いたのだ。
中野出身者と高砂族一五〇名は、
米軍とオーストラリア軍に対して
遊撃戦を行い目覚ましい成果を
上げたのだ。
そのときの逸話があるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる