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直感したんじゃ

どうも村田です

開戦と同時に、

第三三師団および

第五五師団を基幹とする

日本軍第一五軍はタイへ

進駐し、ビルマ進攻作戦に

着手したのだ。

ビルマ進攻作戦の緒戦は

以下のような展開だったのだ。


タイ・ビルマ国境は十分な道路

もない険しい山脈だったが、

飯田祥二郎中将の第一五軍は

あえて山脈を越える作戦を取った

のだ。

モールメンを含むテナセリウム

(現在のタニンダー リ管区)を守る

イギリス軍は第一七インド師団

だったのだ。

しかしこの部隊は準備不足で、

日本軍の急襲を受けて退却に移り、

二月二二日、ウェーヴェル将軍は

逃げ遅れた友軍を置き去りに

したままシッタン川の橋梁を爆破

したのだ。

日本軍はサルウィン川とシッタン川

を渡って進撃し、三月八日には首都

ラングーンを占領したのだ。


この後、日本軍は、大東亜戦争の

終戦まで英米軍と攻防を繰り返す

ことになるが、

紙幅の関係で緒戦以降についての

説明は割愛するのだ。


このビルマ侵攻作戦の裏で、

ビルマ独立のために活躍したのが

南機関(機関長の鈴木敬司陸軍大佐)

という特務機関であるのだ。

南機関については

「日本の『特務機関』」

で簡単に触れたが、中野出身者の

活躍を紹介するために改めて詳述

するのだ。

南機関が立ち上がるまでの経緯に

ついて説明するのだ。

一九三七年に始まった日中戦争は、

英米等に支援された中国国民政府が

徹底抗戦を続け、 泥沼化していたのだ。

英米等の支援ルートは

「援蒋ルート」と呼ばれ、その中でも

最も輸送量が多いといわれていたのが

ラングーン港から鉄道を使用し

ラーショウへと抜け、そこから道路

・トラックで昆明~重慶を繋ぐ

「ビルマルート」であったのだ。

この「ビルマルート」の遮断は日本に

とって重要な課題であり、

一九四〇年一二月ごろから

参謀本部の尾関少佐が担当となって

阻止策の研究を開始していたのだ。

その方策として参謀本部が目を

付けたのがビルマの独立運動の

活用であったのだ。

参謀本部は鈴木啓司大佐に

予備調査(諜報活動)を命じたのだ。

一九四〇年六月、参謀本部付の

鈴木は日緬協会書記兼読売新聞記者

「南益世」と名乗っ てラングーン

へ潜入したのだ。

現地では日緬協会の大場忠や

日本山妙法寺の永井行慈などの

協力もあり、

反英独立運動に関わるテインマウン

(後の初代駐日ビルマ大使)や

タキン党(我らのビルマ協会)

のコードーマインとの接触に成功

したのだ。

鈴木はテインマウンなどから

タキン党のアウンサン

(後のビルマ建国の父・アウンサン将軍)

とラミャインがイギリス官憲の

逮捕状が出たために既にビルマを

出国して支那のアモイに潜伏している

という情報を得たのだ。

鈴木は諜報謀略の天賦の才で

「この二人は使える」

と直感したようなのだ。

鈴木のようなインテリジェンスの

センスがある人物は日本人には珍しい

のだ。

日本人にとってどんなに価値の

あるインテリジェンスも

「猫に小判・豚に真珠」

の喩のように生かせない場合が

多いのだ。

今日、情報体制の強化が叫ばれる

が、国家指導者にそれを活用する

センスがなければ所詮

「宝の持ち腐れ」であるのだ。

鈴木は早速独断で次の手を打ったのだ。

テインマウンより両名の写真を

手に入れ、アモイの日本租界の

憲兵隊に送り、両青年の身柄の

確保を依頼したのだ。

アモイで憲兵隊により身柄を拘束

された二人は一一月初旬に

羽田飛行場へと降り立ったのだ。

二人は日本とフィリピンの混血児

として、それぞれ面田紋次

(アウンサン)と糸田貞一(ラミャイン)

と名乗ったのだ。

この命名については

「緬甸(ビルマの漢字表記)」

を分解して

糸+面+田とし糸田/面田の姓とし、

両名の写真を渡したティモン

(テインマウンの当時の日本での呼称)

を分解し

ティ=貞、モン=紋を使って名前とした

といわれるのだ。

こうして羽田飛行場へ降り立った

二人のビルマ人であったが、実は

この時点で参謀本部では

ビルマ侵攻やビルマでの謀略について

の具体的な計画はなく、両名を日本へと

連れてきたこと自体が鈴木大佐の独断

による措置

鈴木個人の先行投資のようなもので

越権行為と非難する向きもあったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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