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進められたんじゃ

どうも村田です

参謀本部別班から

唯一人だけ第一次降下部隊

に参加を許された中野卒業生

の星野中尉は

一度も降下訓練を受けて

いなかったものの、無事に

着地に成功したのだ。

直ちに精油所に侵入して防空壕に

避難していた原地住民に宣撫用の

ビラを配り、

「日本軍の敵はオランダ軍だ。

インドネシア人は友だちだ。我々は

空から降りてきた。みなさん

安心してください」

と中野学校で習ったマレー語で

叫んだのだ。

星野中尉は、オランダ人精油技術者

から、敵の兵力は三五〇名ほどで

戦車や装甲車は出払っていることなど

の情報を得、

精油設備に取り付けられた爆薬装置

の有無などを聞き出し、製油所を

「無傷で確保する」ことに大きく

貢献したのだ。

空挺部隊の第一梯団と第二梯団は、

一四日の二一時には飛行場を確保し、

翌一五日には パレンバン市街に突入し、

同市を確保したのだ。

一八日に第二師団主力が到着した

ことで空挺作戦は完全なる成功を

収めたのだ。

小さな放火があった程度で、

第一六軍は南方作戦の最重要課題だった

「パレンバン油田・精油所を

無傷で確保する」ことに成功した

のであるのだ。

空挺作戦成功の後、この陸軍

落下傘部隊は「空の神兵」と宣伝され、

後に軍歌や映画が製作されて親しまれた

のだ。

好都合というべきか、蘭印には、

「天から白布の黄色い人が舞い

降りてきて我々を解放してくれる」

という伝説があったのだ。

参謀本部別班を担う中野出身者の人数は、

第一六軍の将兵約五万五〇〇〇人の兵力

に比べれば極僅かだったが、達成した

成果は大きかったのだ。

そのことは、日露戦争において

明石大佐がただ一人で満州軍

約二五万人に拮抗するほどの働き

をしたのと似ているのだ。

陸軍中野学校の第二期生(乙1長)

である太郎良定夫中尉は、

ベトナムのサイゴンにあった

南方総軍参謀部第二課で情報主任

として勤務していたのだ。

情報主任 参謀の大槻章中佐から

「蘭印軍の石油資源破壊を抑止

するために何か良い方策はないか」

と問われたのだ。


二月一五日のシンガポール陥落以降、

すでにジャワ周辺の島々は日本軍に

よって制圧されていたが、

オランダ軍司令部はラジオ放送を

通じて、重要施設の破壊命令を出し

始めていたのだ。

太郎良中尉は、中野学校在学中に

教官から聞いた、ドイツ軍による

偽のラジオ放送の活用例(情報操作)

を思い出したのだ。

ポーランドに電撃作戦を行った

ドイツ軍は、ワルシャワ が陥落する

数日前に挺身隊によってポーランド

の中央放送局を占拠して

「ワルシャワは陥落した」

という偽情報を放送し、大混乱を

引き起こしたのだ。

ジャワ島においては、バンドン

放送局の放送を各地の支局が

中継して全島に放送していたのだ。

つまり、バンドン放送局を制する

ことができれば、ジャワ島全域に

偽情報を宣伝できるというわけなのだ。

太郎良中尉の考えたラジオ放送

謀略計画は、

「第一六軍の上陸と同時に、

爆撃機によりバンドン放送局を爆破し、

放送中断のアナウンスをする猶予すら

与えずに放 送不能に陥れ、バンドン

放送局の敵軍の電波に、日本軍の

支配下にあったベトナムのサイゴン

放送局により電波を乗っ取る」

というものであったのだ。

バンドン放送局の電波を

乗っ取る準備として、

アナウンサーや出演者、

オランダ総督、軍司令官などの

声色を研究して、似た声を持つ

代弁者を選考するなど、

謀略計画に基づく

様々な準備が進められたのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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