どうも村田です
スマトラ島の
パレンバンには蘭印最大かつ
東南アジア有数の大油田地帯
があり、
ロイヤル・ダッチ/
シェルグループの製油所が
操業していたが、
これを「無傷で確保する」こと
が南方軍・第二五軍にとって
最重要任務であったのだ。
油田と製油所を
「無傷で確保する」ためには、
敗走するオランダ軍が油田・
製油所などの関連施設を
日本軍の手に渡さないため
に事前に破壊するのを阻止
する必要があったのだ。
陸軍中野学校幹事の
上田昌雄大佐は、陸軍参謀
総長の命を受けて、
パレンバンの現地調査に
赴いたのだ。
先に調査に来ていた
中野出身者の丸崎義男中尉
と新穂智中尉と合流して
調査を行ったのだ。
調査の結果、
「無傷のままパレンバンを奪取
するためには、落下傘部隊で
一挙に攻略する空挺作戦』が
最良である」
との結論を得、そのことを
報告したのだ。
その報告に基づき、
パレンバン攻略のため
空挺部隊の第一挺進団に
準備命令が下り、
秘密裡に徹底した訓練が
行われたのだ。
参謀本部別班は、空挺作戦
に資するため、油田に関する
調査に加え、
パレンバンの精油施設の
航空写真、精油所構内の
配置図、蒸留塔の位置などの
情報収集にあたったのだ。
さらには、民間企業の協力を
得てパレンバン市街の道路、
橋梁、兵営や銀行などの
資料も収集し、
現地人の教育程度や宗教
なども調査したのだ。
空挺作戦に不可欠な
気象情報も当然ながら
調べられたのだ。
このように、軍事作戦には
多様な情報(インテリジェンス)
を必要とするのだ。
参謀本部別班は情報を
提供するだけではなかったのだ。
中野卒業生の六人
(米村正雄中尉(乙Ⅰ短)
星野鉄一少尉(乙Ⅱ短)、
吉武智嘉男少尉(乙Ⅱ短)、
片山康次郎軍曹(丙Ⅰ)、
熊谷正男軍曹(丙Ⅰ)、
夏井義男軍曹(丙Ⅱ))は、
パレンバン挺進隊(空挺部隊)
の五〇〇人と共に行動する
ようにとの命令を受けたのだ。
中野卒業生六人の任務は、
蘭印軍による精油施設の
破壊を阻止して無傷で施設を
占領することと
現地の石油関連の技術者や
労務者を確保・慰撫し、
占領後に進出してくる日本の
石油関連部隊に協力させ、
施設の再稼働を容易にする
ことであったのだ。
パレンバンの情報を頭に
叩き込んだ中野学校出身者
の六人は、空挺部隊本部が
ある宮崎県新田原に向かい、
降下訓練を行う予定だったが、
空挺部隊の挺身隊長は、この
六人の訓練を拒否し、第一次
降下部隊から除外されたのだ。
第一陣に参加し、先導役を
務めるはずだったが、
飛行場を占領した後に第二陣
で来るようにと言われたのだ。
憤慨した星野少尉が直談判
した結果、同少尉だけが
第一次降下部隊に参加できる
ことになったのだ。
一九四二年二月一四日朝、
星野少尉を含む挺進隊員を
乗せた輸送機を含む百機に
及ぶ大編隊は
マレー半島南部のカハン
飛行場を発進してパレンバン
に向かったのだ。
編隊はマラッカ海峡を横断し、
スマトラ島を海岸沿いに
南下して、目標のパレンバン
を目指したのだ。
低く垂れこめる雲を潜る
ようにしてパレンバン上空
に侵入すると同時に落下傘
降下が始まったのだ。
現地の雲高が二〇〇メートル
程度だったので、降下高度は
それ以下だったといわれるのだ。
挺身隊・第二中隊長の
蒲生清治中尉は飛行場の
西側に降下したのだ。
この降着場所は、事前の調査
では「平地で草地」のはず
だったのだ。
ところが二月は雨季のため、
胸まで水に浸かる湿地に
変わっていて、草の背丈も
伸びていたのだ。
蒲生中尉は最初に輸送機から
飛び降り、着地後は部下と
三人で一組になり深い草むら
をかき分け進むうちに、
待ち構えていたオランダ軍
との戦闘が始まったのだ。
蒲生中尉は手りゅう弾を
敵の防空壕の中に投げ入れ
たりしながら奮戦している
最中、
正面から撃たれ、銃弾は
腹部を貫通して戦死したのだ。
まだ二六歳の若さだったのだ。
御国に捧げられた尊い
「血の一滴」であったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる