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スパースターなんじゃ

どうも村田です

日本敗戦の後、英国は、

「英国に逆らって日本軍に

与したインド兵は裁判で

厳しく断罪する」

方針を固めたのだ。

それに対し、インド国民は

猛然と反発・抗議したのだ。

「あいつら(インド国民軍兵士)

は俺たちの英雄だ。あいつら

こそが我々の代表だ」

との声がインド全土を覆い、

二年後(一九四七年八月)に

独立を果たしたのだ。

F機関の藤原が撒いた種が

インド独立に繋がったので

あるのだ。

藤原本人は中野学校の出身では

なかったが、十数名のF機関の

要員のほとんどが中野卒業生

だったのだ。

たった十数名の人数で、とてつも

なく大きな仕事を成し遂げたので

あるのだ。

中野卒業生がインド独立の立役者

と言っても過言ではないのだ。

インドだけでなく、東南アジアの

英・仏・蘭領の植民地が独立した

裏には、中野卒業生たちの存在が

あったのだ。

藤原は「インド独立の父」

チャンドラ・ボースと並び、

「インド独立の母」と呼ばれて

いるというのだ

藤原少佐のF機関は、

英領マレー連邦から追われる

強盗団の首領ハリマオに目を付け、

彼とその強盗団を諜報・工作要員

としてリクルートすることを企図

したのだ。

ハリマオとは、

一九六〇年から六一年にかけて

「怪傑ハリマオ」というテレビ

ドラマが放映されたが、

そのモデルになった谷豊のこと

であるのだ。

谷は一九一一年に福岡県で生まれ、

二歳のときに一家でマレー半島に

移住したのだ。

その後、祖父に預けられて日本の

尋常小学校に通うが、卒業後は

マレーに戻るのだ。

マレーの友だちから頼られる

ようなガキ大将だったのだ。

二〇歳のときに日本に帰国して徴

兵検査を受けたが、身長が足りずに

丙種になったのだ

(丙種とは、戦時の必要なときだけ

召集される兵役に適さない者)。

日本の企業に就職はしたが、

すでにイスラム教に帰依していた

谷は、マレーに帰りたいと思って

いたのだ。

そんなとき、谷に悲報が届く

のだ。

満州事変に怒った華僑の暴漢が

風邪で寝込んでいた妹の静子を

斬首して殺害したのだ。

帰国した母からその話を聞いた

谷は激怒して単身マレーに

渡ったのだ。

谷はマレーの友人たちと盗賊団

となり、数年間、マレー半島の

あちこちで華僑を襲うなどの

活動をしていたのだ。

英領マラヤでは二〇万ドルの

懸賞金がかけられていたほど

だったのだ。

部下の一人がタダ飯を食べて

警察に捕まったことがあったのだ。

ハリマオがメシ代と罰金を持って

部下の身柄を引き取りに行った

ところ、逆に逮捕されてしまい、

留置場に入れられたのだ。

そのころには、日本語名の

谷は捨て、マレー語で「虎」

を意味する〝ハリマオ〟という

名で呼ばれていたのだ。

参謀本部は南方作戦に備え

マレー半島に関する調査・研究

をしているうちに、

マレー語もタイ語も堪能な

ハリマオこと谷豊の存在を知り、

彼を諜報員として活用しようと

企図したのだ。

藤原少佐の下で諜報活動を

することになった神本利男が

二五バーツの賄賂を留置場の

責任者に渡し、ハリマオを

釈放させたのだ。

英領マラヤで谷に掛けられた

二〇万ドルの懸賞金に比べ、

タイでの保釈金は格安だった

のだ。

ハリマオは日本軍の諜報員に

なることを最初は拒んだが、

神本の「誠」の心

マレーの習慣と文化を学び、

いずれイスラム教に帰依する

と約束

に動かされ、首を縦に振ったのだ。

谷は、〝ハリマオ盗賊団〟全力で、

F機関直属の諜報組織として

藤原に協力したのだ。

開戦前には、英軍の

ジットラ・ライン要塞の陣地

構築の妨害工作を行なったのだ。

ジットラ陣地は、英領マラヤと

タイの国境付近に構築された

英軍の防御陣地で、

マレー半島の西側を進撃する

第五師団の進路上にあったのだ。

開戦後は敗走する英軍が橋に

仕掛けた爆弾の解体や通信線

の切断などで作戦に寄与した

のだ。

シンガポール島を攻略してから

約一カ月後の三月一七日、

ハリマオはマラリアで死亡した

のだ。

享年三〇歳だったのだ。

ここで、谷とその部下を

リクルートした神本利男に

ついてだが

神本は中野卒業生の中では

屈指の活躍をした人物だが、

唯一の民間人(非軍人)

諜報員であるのだ。

神本こそが中野出身者を象徴

する人物

陸軍中野学校教育で培われた

スーパースターだと考えている

のだ。

神本は、一九〇五年、

開拓農民・神本利七の次男

として生まれるのだ。

利七自身は農家だったが、

家系は鳥取で先祖代々戦国時代

から続く武家の名家だったのだ。

一九三二年に拓殖大を卒業

したが暫くは老父を看病する

ために北海道に留まったのだ。

父の死後、一九三二年一月に

満州国の警務本庁勤務へと

旅立ったのだ。

一九三三年四月、千山の

道教寺院である無量観に入門。

以降三年間、整息の術、眼力修行、

武当派拳法(中国武術の一派)を

学び、期せずして、その後に身を

挺することになるのだ

諜報員としての心身の鍛錬を

行うことになったのだ。

千山は、遼寧省鞍山市の南東

一八キロの山地で峰の数が

千近くに及ぶ山岳地帯であるのだ。

清代に道教が入ってきて、無量観

など一二の観(道教寺院)が

建てられたのだ。

神本は、一九三六年五月から

図們国境警備隊の琿春分遣隊主任

を務めたが、

一九三八年七月一三日早朝、

スターリンの粛清から逃れる

ために亡命を試み、

単独で越境してきたソ連極東

内務人民委員会(GPU)長官

ゲンリフ・サモイロヴィチ・

リュシコフ三等国家保安委員

(中将相当)を捕縛したのだ。

それ以降、神本はリュシコフに

随行して帰朝し、一九三八年八月

から翌年一月まで山王ホテル

などでリュシコフの周辺警護を

担当したのだ。

その行き届いた心配りに関係者

(リュシコフの尋問を担当した

秋草俊少佐や福本亀治少佐

(いずれも陸軍中野学校の

創設に関わる))から大きな

信頼を得るのだ。

すでに、一九三八年七月には

「後方勤務要員養成所

(後の陸軍中野学校)」が

設置され、

特種勤務要員(第一期学生一九名)

の教育を開始されており、秋草は

その初代所長だったのだ。

秋草と福本は神本のリュシコフ

に対する警護ぶりとその人物を

つぶさに見て、

彼の諜報員としての天賦の

才能を見出したのだ。

秋草は神本を説得して、ただ

一人だけ民間人として陸軍

中野学校への入学を許したのだ。

神本はただ一人で

「特別第二期生」として扱われ、

一期生教育の途中から六か月間

教育を受けたのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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