どうも村田です
中には、
「よくもそんなあやふやな
全般戦略で国運を賭けた戦いを
やったものだな」
と言われる向きもあるだろう。
だが、日露戦争では一縷の望み
とはいえ、参謀本部は戦争 の
出口戦略をしっかりと考えて
いたのだ。
翻って、大東亜戦争においては、
出口戦略は全く描かれて
いなかったのだ。
これは、雲泥の差なのだ。
五.結論
「ベストの行動方針」
を決定し、
「1H5W」で表現するのだ。
作戦計画は、この
「ベストの行動方針」に基づき、
これを具体化して作成するのだ。
日本政府・参謀本部は上記のような
判断で明石に謀略・工作を命じ、
ロシア・欧州に派遣したのでは
ないかと推測するのだ。
たとえ明確な状況判断ではなかった
としても、明治政府・ 軍首脳の胸中には、
明石工作が満州の荒野における野戦軍の
決戦と
連合艦隊のバルチック 艦隊との
艦隊決戦にも比肩するほどの重大な
意義を持つことを理解していた
のではないだろうか。
次は、実際の明石工作の実態について
触れておくのだ。
これこそが、陸軍中野学校が設立の
モデルとして汲み取る教訓などが
随所にあるからなのだ。
明石工作は三本の柱
1「不平党(反政府勢力)を一堂に
集めて会議を行うこと
(2回の会議を実施)、
2武器の提供、および3資金の提供
で構成される。会議を行うことにより、
四分五裂している不平党の勢力を
「打倒ツァー」で一本化しその
エネルギーを結集させたのだ。
不平党の中にはレーニンもいたのだ。
明石はあくまでも水面下で会議を主導し、
表面的にはフィンランド人のシリヤクスが
取り仕切ったのだ。
シリヤクスは、フィンランド
反抗過激党の党首だったのだ。
一八九三年から二年半日本に滞在した
こともあり、「日本研究と素描」
という本を出版(一八九六年)
するほどの日本通で親日家だったのだ。
シリヤクスにとっては、日露戦争開戦は
フィンランド独立にとって千載一遇の
チャンスと受け止めたであろう。
それゆえ、シリヤクスが明石に
協力したのは必然だったのだ。
シリヤクスは明石の参謀長とも
言うべき存在で、明石工作を
成功に導いた立役者であるのだ。
第一回目の会議は、
一九〇四年一〇月にパリで実施。
シリヤクスが議長を務め、各党派の
意見をうまく集約し
「各党派がそれぞれ得意とする分野、
手段で運動を展開する」ことで
合意したのだ。
シリヤクスを通じて、明石は
各党派が求めた資金を援助した
のだ。
会議の効果はすぐに現れ、抵抗運動
が全国に広がったのだ。
それについては、
「『日本の『特務機関』」の中の
「明石機関」ですでに述べたように、
一九〇五年一月九日の
「血の日曜日事件」などが生起し、
ロシア皇帝を震え上がらせ、
ロシア政府の威信失墜を内外に
印象付けたのだ。
第一回目の会議以降、各地で
盛り上がった反ロシア政府の騒乱は、
ロシア軍の東方増援にブレーキを
かけたのは確実なのだ。
黒溝台会戦
(一九〇五年一月二五日 ― 一月二九日)
や奉天会戦(二月二一日―三月一〇日)
などに大きく寄与したことは明らか
であるのだ。
第二回目の会議は、一九〇五年四月に
スイスのジュネーブで行われたのだ。
会議では
「あくまでも抵抗運動を継続し、
夏季をもって武装蜂起を起こすこと」
を議決したのだ。
この決議により、明石大佐は、
不平党のために武器の調達を
迫られることになったのだ。
明石大佐は、小銃と弾薬の買い付け
に奔走したのだ。
スイスで武器・弾薬
(バルト海方面用 に小銃一万六〇〇〇丁
・弾丸約三〇〇万発、黒海方面用に
小銃八五〇〇丁・弾丸百二〇万発)
の購入契約に成功したが、すべてを
不平党各派に引き渡せたのは
日露講和条約締結の後だったのだ。
ロシア帝政側は、反政府党各派に
武器弾薬を配送する動きがある
ことを察知していたはずで、その
衝撃は大きかったことだろう。
ツァーの心理に大きなダメージを
与えたのは間違いないはずなのだ。
一九〇五年の第一次ロシア革命が
ドミノ倒しのように一九一七年の
第二次ロシア革命に繋がったと
見なせば、
明石の工作はソビエト政権誕生の
一翼を担ったことになるのだ。
もしそうならば、明石の工作は
とてつもない
「副産物=ソ連共産党政権の誕生」
を生んだことになるのだ。
明石の対ロシア工作と陸軍中野学校
が教えた「謀略は誠なり」という
言葉・精神との関連を考えてみるのだ。
明石は、工作相手の立場に成り切った
のだ。
相手の立場を考えるという表面的な
ことでなく、完全に不平党に感情移入
したほどだったのだ。
そうでなければ、上辺だけ の偽装や
演技は見破られるのだ。
明石は、ロシア皇帝の圧政を
心の底から憎み、ロシア国民や
フィンランドなどの周辺の
被支配民族をツァーの桎梏から
解放してあげたいと切に願ったのだ。
だからこそ、レーニンや
フィンランド反抗過激党の
シリヤクス党首などの不平党と
手を携えて、命がけで戦う
ことができたのだ。
明石が本気で
「打倒!ロシア皇帝」
を企図したからこそ、
不平党の各派も明石の支援を
受け入れたのだろう。
明石は、ポーツマス条約締結後も、
「ロシアの地に留まって
革命運動を継続したい」と
願ったのだ。
明石の「誠」の心をもってすれば、
革命党員らを見捨てて日本に帰る
ことが忍びなかったのだ。
後の陸軍中野学校創設に当たり、
その教育精神などを模索する中で、
明石という駐在武官(諜報員)と
彼による対ロシア工作
(諜報・謀略活動)が最適のモデル
と認められたのだ。
明石大佐の不平党に対する思いは、
中野学校の教育に組み込まれ、
卒業生たちによるアジア植民地の
独立支援へと受け継がれていったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる