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活かされたんじゃ

どうも村田です

広瀬は

サンクトペテルブルクから

スレチェンスクまでの

六〇〇〇キロメートルは

鉄道を利用し、

スレチェンスク

(バイカル湖東北方)からは

購入した橇車(そり)で

ハバロフスクまでの

二二〇〇キロメートルを

走破したのだ。

広瀬の大陸横断旅行の

詳細については、講演録

『悉比利及満州旅行談』

に記されているのだ。

広瀬は一九〇二年一月一六日

にサンクトペテルブルクを

出発し、シベリア鉄道で東進、

イルクーツクで下車して

バイカル湖を橇車で横断した

のだ。

広瀬がバイカル湖に辿り着いた

時には、バイカル湖は厚く結氷

しており、湖の横断は、すでに

砕氷船から橇車に切り替わって

いたのだ。

広瀬の大陸横断旅行の第一の

目的は、

「ロシアの極東における軍事

作戦の兵站線となるシベリア

鉄道輸送能力の調査」

であるのだ。

広瀬は

「バイカル湖を列車が横断する

時は、普段は二隻の砕氷船

(バイカル号とアンガラ号)

を利用するが、

厳冬期には(氷が厚く)

砕氷船は用をなさず、

橇車のみが交通手段になる」

と報告しているのだ。

また、一九〇二年一月の

時点では、バイカル湖南岸を

迂回する鉄道は未だ完成して

いないことを広瀬は確認した

のだ。

これは日本陸軍にとって

極めて重要な情報だったのだ。

ロシアは未だシベリア鉄道

をフルに活用して兵員・

兵站の輸送ができない

ことが明らかになったのだ。

広瀬の大陸横断旅行の

第二の目的は、日露の

予想戦場である満州の

寒さを実体験することなのだ。

広瀬は、バイカル湖横断後、

ザバイカル鉄道を利用して

東進を続け、スレチェンスク

で下車したのだ。

スレチェンスクからは

橇車に乗り換えたのだ。

購入した橇車は、屋根が付いて

いない粗雑なもので、何度も

修繕しなければならなかった

のだ。

馬は2~3頭立てで、一定

距離ごとに新しい馬に換える

ことにしたのだ。

衣類、食物を買いそろえて

準備を整え、二月一二日、

スレチェンスクを出発して

雪原の中をハバロフスクへ

向かったのだ。

広瀬は、途中の

ブラゴヴェシチェンスクに

到着するまで一度も宿を取らず、

橇車に乗ったまま、昼夜兼行

で強行軍したのだ。

一昼夜平均五〇里

(約二〇〇キロメートル)

以上を走り、

ロシア人でさえも驚くほどの

速度で疾駆したのだ。

頑健な広瀬は、一〇昼夜半

ほど橇車に乗り続け、

そこで座りながらわずかに

眠っただけだったが、大して

疲れなかったというのだ。

広瀬は、時間と旅費を

惜しんだのだろう。

食糧にはパン、スープ、

肉、茶、砂糖などを準備

したが、強烈な寒気で

すべて凍ってしまったのだ。

スープは凍ったものを

必要な分だけ鑿【のみ】で

砕いて温めて飲み、

肉も温める暇がなければ

鰹節のように削って食べた

のだ。

下痢に悩まされたが、

寒いのでお尻が凍傷に

ならないように3分以内に

排便を済まさなければいけない、

という教訓を得たのだ。

二月一八日、

ブラゴヴェシチェンスク

到着。

二四日に

ブラゴヴェシチェンスク

を出発、ハバロフスクに

到着して橇の旅を終えたのだ。

二八日、ウスリー鉄道で

ハバロフスクを発ち、

ウラジオストク、ニコリスコエ、

ハルビン、奉天、大連を経て

旅順に至り、

そこから船旅で、

三月一九日に長崎に到着し、

二八日に帰京したのだ。

広瀬の耐寒経験は、

陸軍(満州軍)の冬季作戦

に少なからず活かされたに

違いないのだ。

同時期の一九〇二年一月、

陸軍第八師団隷下の

歩兵第五連隊(青森)は、

雪中行軍を行ったのだ。

この厳冬期の雪中行軍の

主目的は、青森から弘前の

陸奥湾に沿った補給路を

ロシア海軍艦隊の艦砲射撃に

よって破壊・阻止された場合

を想定して、

内陸部の八甲連峰北側から

八戸に至る山岳ルートを

開拓するほか、

極寒対策や雪中行軍の

注意点及び装備品の研究

を行うことにあったのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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