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今も昔も同じなんじゃ

どうも村田です

こうして培われた日本と

ポーランドの関係は、後の

大東亜戦争で情報将校の

エースとして活躍した

小野寺信【まこと】

(最終階級は陸軍少将)

の諜報活動に便宜がもたら

されたのだ。

スウェーデン駐在武官の小野寺は、

ポーランド亡命政権の軍参謀本部

情報部のスタロニー・ガノ部長を

はじめ情報関係者から、

ソ連だけでなく、ポーランドが

与する米国と英国(連合軍)に関する

情報までも提供を受けたのだ。


小野寺信はヒューミントの神様と

言われたのだが、それには理由が

あるのだ。

英国国内の治安維持のための

情報機関、つまり英国内に潜入

しているスパイを取り締まる

機関であるMI5は、

ヨーロッパで活動していた

外国のスパイ

英国にとっては凄腕の危険人物

が記録されているファイルがある

のだが、その中に小野寺の名が

記されているのだ。

ガノ情報部長が枢軸国である

ドイツの情報も、ソ連を含む

連合国軍の情報までも小野寺に

流してくれたのは、

両者の間に強い信頼関係が構築

されていたためなのだ。

小野寺は、スウェーデン駐在武官

に赴任する前は、バルト三国の

駐在武官をしていたのだ。

その時にポーランド軍情報関係者

との人間関係が築かれたのだろう。

小野寺は人から好かれ、誰からも

信頼される人柄だったというのだ。

おそらく、橘周太中佐の教え

「信用は求むるものに非ず、

得るものなり」

を実践したのではないだろうか。

小野寺が獲得した

「ウルトラ情報」は、

大戦末期のヤルタ会議での

「ソ連はドイツが降伏してか

ら三か月後に、日ソ中立条約を

破棄して、対日参戦する」

というものだったのだ。

小野寺はこの情報をポーランドの

情報機関から得たのだ。

小野寺はすぐに日本に打電したが、

その貴重な情報は握り潰されて

しまったのだ。

それどころか、陸軍はソ連に

「連合軍との終戦交渉の仲介」

を頼む有様だったのだ。

戦後、小野寺は情報を

握り潰した人物を調べたが、

わからず終いだったのだ。

これについては、産経新聞ロンドン

支局長だった岡部伸著

「『諜報の神様』と呼ばれた男

連合国が恐れた情報士官・

小野寺信の流儀」(PHP 研究所)

が詳しいのだ。

日本の最大の弱点は、あらゆる

レベルの組織で、折角得た情報を、

最大限に活用できないことなのだ。

それは、昔も今も同じなのだ。

満州におけるロシア軍との戦いに

おいて、日本軍のもう一つの難敵は

「寒さと病気」だったのだ。

日露戦争終了後に判明した結果から

見ると、「寒さと病気」はロシア軍

との戦いにも勝る人的な損害を

満州軍にもたらしたのだ。

ロシア駐在武官だった広瀬武夫

海軍少佐(海兵一五期)は、

身をもって満州の寒さを体験し、

報告した人物であるのだ。

広瀬は大分県竹田市出身で、

日露戦争の「旅順港閉塞作戦」

で劇的な戦死を遂げ軍神になった

人物であるのだ。

広瀬はロシア駐在の折、海軍の

大佐の娘アリアズナ・コワリスカヤ

と恋に落ちたのだ。

日露関係が険しくなった

一九〇一年一〇月、広瀬は

帰国命令を受けたのだ。

広瀬はアリアズナを日本に連れて

帰ろうとしたが、さすがに許されず

に断念、泣く泣く別れたというのだ。

広瀬はアリアズナとの悲恋に

打ちひしがれていた最中だったが

海軍軍令部から

「シベリ アを経由して途中でロシア

の地方の状況や、シベリア鉄道輸送に

関する事項を視察し、一 九〇一年度

中に日本に到着せよ」

という情報収集に関する命令を

受けたのだ。

この命令には含まれていなかったが、

広瀬は自らの発意で

「身をもって満州の寒さを

体験・報告する」ことを決心したのだ。

あるいは、アリアズナとの失恋の

痛手を忘れるためのものだった

のかもしれないのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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