どうも村田です
その信頼関係構築の
根底には、石光が兄の
ように慕っていた橘周太
の教え
「信用は求むるものに非ず
、得るものなり」があった
のだ。
橘中佐は、日露戦争の遼陽会戦
で首山堡【しゅざんぽ】を攻撃
する際、大隊長として獅子奮迅の
働きをしたが、
敵軍の弾に当たって戦死
このときの働きで軍神として
崇拝されるようになったのだ。
その後、橘中佐を祀る橘神社が、
長崎県にある橘湾を望む丘の上に
創建された(現在は雲仙市の管轄)
のだ。
橘中佐流の統率(リーダーシップ)
の要点
「信用は求むるものに非ず、
得るものなり」は、
上に立つ人(指揮官など)が
進んでそれに従う人(部下)の
信頼を得る努力を惜しまない
ことが重要であるということ
なのだ。
この橘中佐の教えは、
陸軍中野学校精神の
「謀略は誠なり=
誠を尽くして相手の信頼を得る」
とは一脈通じるものがあると
確信するのだ。
諜報活動において、情報源・
協力者となる相手の
〝心を開かせる〟ためには、
「誠」を尽くして相手の信頼を
勝ち得ることが不可欠であるのだ。
情報源や協力者になる相手は、
場合によっては「死刑」になる
ほどのリスクを背負うことになる
のだ。
そのリスクを受け入れても
なお諜報員に協力するのは、
M=Money(金銭)、
I=Ideology(イデオロギー)、
C=Compromise & Compulsion
(妥協と脅迫)、
E=Ego(自尊心)
であるといわれるが、五つ目の
決め手は、情報源・協力者となる
相手の「信頼を得ること」で
あるだろう。
そのためのやり方として、
日本人のメンタリティとしては
橘中佐流の統率(リーダーシップ)
こそが最もふさわしいやり方では
ないだろうか。
中野学校を創設した岩畔中佐、
秋草中佐、福本中佐の3人も
同じように考えたにちがいないのだ。
このような考え方は、日本の歴史・
文化に根差す精神風土として
自然にできあがったものなのだ
後に書くが、南方作戦で
中野学校の卒業生らが現地で
受け入れられ、
工作を成功に導いたものも
橘中佐流のリーダーシップと同様に、
諜報員が進んで現地の人たちの
信頼を得るよう「誠」を尽くして
努力したからであるのだ。
田中義一(陸士旧八期)は、
長州出身のエースとして
「陸軍大将」となり、
内閣総理大臣にまで登りつめたのだ。
同じ陸軍士官学校の卒業生でも、
一方の石光(陸士旧一一期)は、
日陰者として対ロシア諜報に努めた
のだ。
日露戦争後には「陸軍少佐」で
軍籍を離れ、3等郵便局長や貿易商
などを手掛けたがことごとく失敗し、
失意のうちに大東亜戦争中に
亡くなったのだ。
石光の人生は、陸軍中野学校の
教育精神
「一切の名利も地位をも求めず、
日本の捨て石として朽ち果てる
ことを信条とする」
を体現するモデルであったと思うのだ
福島安正は川上操六の門下生の
一人で、日本の陸軍軍人
(最終階級は陸軍大将)であるのだ
情報将校のエースである福島は、
明治直前の一八六七年、幕府の
講武所で洋式兵学を学び、
戊辰戦争に松本藩兵として
参戦したのが軍歴の始まりで、
陸軍士官学校出身ではないのだ。
開成学校(東京大学の始祖)
で外国語を学んだが、語学の
天才で、英語やフランス語、
ドイツ語、中国語が堪能だったのだ。
一八八七年三月、福島少佐は
ドイツ公使館付武官として
ベルリン駐在を命ぜられたのだ。
赴任後の翌年、福島はロシアが
東洋進出のためにシベリア鉄道
の建設を企図しているという
情報に接したのだ。
この鉄道の軍事的な意義は
明らかだったのだ。
それまでのロシアは欧州の
兵力を極東に運ぶ効率的な
手段を持っていなかったのだ。
海路で喜望峰を回り極東に
大兵力を搬送するには長い
航海期間を要し、
多数の大型船舶、膨大な費用・
兵站が不可欠であり、事実上
不可能だったのだ。
そのことは、日露戦争末期に
極東に回航したバルチック艦隊
の航海の様子を見ればわかるのだ。
一八六九年にはスエズ運河が
開通したものの、英国などから
スエズ運河通航を阻止される
恐れもあったのだ。
この点、シベリア鉄道が開通
すれば、極東侵略のための
兵力も物資も、効率的に
送り込むことができる
ようになるのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる