どうも村田です
一九〇五年九月五日、
日露戦争は終り、二九歳の
天風は、無事に帰還したのだ。
参謀本部が満州に投入した
一一三名のうち、終戦後に
生きて帰還できたのは、天風も
含めてわずか九名のみだったのだ。
終戦直前の、四月一六日、
天風にとってはひとり娘の
鶴子が誕生していたのだ。
ようやく平穏な暮らしができる
はずだったが、それは叶わなかった
のだ。
満州における諜報活動で、死線を
越えるような働きの連続であった
天風は腐ったジャガイモを食べ、
ボウフラが湧いた水を飲むような
過酷な環境の中で、いつしかその
強靭な体も病魔に蝕まれつつあった
のだ。
一九〇六年に帰国するとすぐに
奔馬性【ほんませい】の肺結核を
発病したのだ。
奔馬性結核とは、その名の通り、
馬が奔【はし】るように急速に
症状が 進行・悪化する結核で
あるのだ
(現在は「急速進展例」と呼ばれている)。
天風は、無為の死を受け入れず、
「どうせなら、世界の最新医学を
研究して生き残ってやろう」と
前向きに思い立ち、渡米するのだ。
米国とヨーロッパを渡り歩いて、
世界トップレ ベルの医者・研究者、
あるいは哲学者らに教えを乞うたが、
有効な治療法は見つからなかったのだ。
結核が進行・悪化するなか、
失意のうちに、
「日本に帰ろう。母のもとに帰ろう。
そしてわが家で死のう」と、
フランスで世話になった稀代の
女優ベルナールの慰留も断り、
小雨そぼふるほの暗いマルセーユ
の港を、一九一一年五月二五日に
出港したのだ。
ベルナールの従兄が船長を務める
ペナン行きのフランスの貨物船は、
地中海を南下しスエズ運河へ
向かっていたが、
途中イタリアの軍艦が運河で
座礁して不通となったため、
急遽エジプトの
アレキサンドリア港に寄港し、
五日間待つこととなったのだ。
天風は冥土の土産にピラミッドを
ひと目見ようと下船し、ホテルに
投宿したのだ。
六月八日、ピラミッド観光のため
朝二時三〇分に起床するが、
三時に激しい喀血をし、ホテルで
横になるのだ。
四時頃にホテルのボーイに起こされ
無理やりに抱かれるようにして
食堂に連れて行かれるのだ。
そこでモロヘーヤのスープを
無理して喉に流し込んでいる時、
偶然に客として居合わせた
六〇歳前後と見られる老人
(実は、一〇六歳だったともいわれる)、
カルマ・ヨガの聖者の
カリアッパ師と運命的な
出会いをしたのだ。
カリアッパ師の
「You can save yourself.
You had better follow me.」
という救いの言葉に、
「Certainly.」
と応えて従うことになったのだ。
天風この時の状況を講演などで
話す時は、いつも涙を流した
というのだ。
六月九日、従者2人を含めた4名で
早朝にアレキサンドリアを出発。
ヨットでスエズ運河、紅海、
アラビア海を航海し、六月下旬に
カラチに入港したのだ。
カラチでヨットを降り、
一〇数頭のラクダの曳船に
乗り換え、
インダス川を六日間かけ
二五〇キロほど北上。
さらにラクダの背に乗り、広大な
インダスタン平野を越え、遥か
ヒマラヤの東端カンチェンジュンガ
の麓に在るヨーガの里ゴーゲ村に
向かったのだ。
「私がついているから心配ない」
との師の言葉を頼りに九五日間の
長旅であったのだ。
当時の病状は毎日、発熱、息切れ、
脈切れの状態で、七日〜一〇日に
一度の喀血を繰り返したのだ。
天風はゴーゲ村で二年半にわたって
ヨーガの修行を行い、悟りを開くと
同時に見事に結核を完治させたのだ。
通常は一生かかっても悟りを
開けない者が多い中、天風は僅か
二年半の修行でこれを成し遂げた
のだったのだ。
結核を治そうという強い一念が、
短期間で悟り開くことを可能に
したのだろう。
一九一三年四月、カリアッパ師
より覚者の聖名「オラビンダー」
を頂き修行を終えてゴーゲ村を
離れたのだ。
師は片手を天風の肩に置き、
「もし困ったことでも起これば、
私の代わりに『もう一人のお前』が、
それを解決してくれる。けして
寂しがることはない」と、
はなむけの言葉をくれたのだ。
後に天風は
「師との別れの際には哭いたよ、
声をあげて哭いたよ」と回想して
いるのだ。
カリアッパ師との出会いも、
「人」という要素が人生にとって
いかに重要であるかを物語るものなのだ。
ヒマラヤからの帰途、
一九一四年四月、上海で玄洋社の
先輩であった山座円次郎中国大使と
滞在中の頭山翁に偶然にも再会する
のだ。
五月下旬、山座大使の要請で
第二次辛亥革命の渦中にある
孫文を最高政務顧問として助ける
ことになったのだ。
革命は失敗に終わったが、天風は
孫文から莫大な資金を得て帰国。
その資金を元手に銀行や発電所を
設立して実業家として成功を収めた
のだ。
しかし、師匠にあたる頭山満は、
天風がその社会・経済的な成功に
胡坐をかいて過ごすことを戒めた
のだ。
頭山は天風に
「あなたは選ばれた人じゃ。
キリストは悟りたいために五年、
釈迦は六年、マホメットが七年、
その間どこに行ってたか
わからなかった。
それで全く見違えるような立派な
人間になって現れた。あなたは
自分自身を作り変えて帰って
こられた。
これは深い天の思し召しがあると
思わなけりゃならん。
『天のまさに大任をこの人に
くださんとするや、必ずまず
その志を苦しめる』というが、
まさにあなたがそのとおり。
これからのあなたは、あなたの
人生を生きるのではない。人の
世のために生きるために、
あなたは生まれ変わられた。
おわかりになったか」と諭したのだ。
天風は頭山の言葉に受けて
発願したのだ。
天風は、ヨーガで学んだことを
日本人向けに作り直して、
日本全国の人々に広め、
悩み苦しんでいる人を救うことを
決意するのだ。
一切の地位名誉と私財を投げ
打って出家し、一九一九年六月
から路上で辻説法を始めたのだ。
この時、四三歳。三カ月間、
毎日握り飯を持って上野公園の
精養軒近くの樹下石上と、
日比谷公園の大隈重信の銅像の
前で大道説法を行ったのだ。
天風は後に
「暮れせまる街頭で、六〇歳を越えた
たった一人の老婆のために統一道を
説いた事もある」と感慨深く語って
いるのだ。
そのうちに、彼の教えに耳を傾ける
人も出てきて、政治家や実業家などの
人たちの目に留まるようになり、
次第に世の中に広まっていったのだ。
その天風の教えこそが
「心身統一法」であるのだ。
今日では多くの人々が「心身統一法」
を実践されているのだ。
詳しくはここでは触れないが、その
根本を簡単に述べると
「人生は心一つの置きどころで変わる」
という一言に尽きよう。
自分の心の持ち方次第で、世の中の
あらゆるものが良くも悪くも変わる
ということであるのだ。
天風の波乱の人生を見て思うのは、
人生や人間を支配・左右するものは
「心」であるということなのだ。
それは諜報活動においても同じ
ことが言えるのだ。
「諜報員の強さは『心』によ って決まる」
と言っても過言ではないだろう。
諜報活動は「心」に覚悟がないと
できないのだ。
天風が死病を克服したように諜報業務も
「不可能を可能にする『心』」が
なければ、決して任務は達成できない
のだ。
中野学校の人間教育も、究極的には
諜報のテクニックよりも諜報員としての
「心=精神」を涵養することだったのだ。
人間の「心の作用」を「人間力」
この「心」を強くすること、
すなわち「人間力を強化すること」
こそが諜報の教育で大事なことだと
確信するのだ。
陸軍中野学校では、諜報員の
「心=人間力」の中核にあるものが
「誠の精神」だと考えたのだ。
さらに言えば、諜報要員選抜に
おいては、日本における現代の
エリートの指標となる
「偏差値」によるべきではないのだ。
天風の例のように、心身の強さ、
挫折した経験、異常ともいえる執着心
(偏執狂と呼ばれるほどの任務への拘り)
などが必要であり、
適任者のリクルートは一筋縄では
いかないことを銘記すべきであるのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる