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貢献したんじゃ

どうも村田です

連隊への体験入隊の成果

として、最精鋭とみられる

皇帝歩兵連隊の練度や将校と

兵士の関係を見るとともに、

ロシア軍の重要書類

(戦時輸送計画書など)を

手に入れることもできたのだ。

田中は上流社会だけでなく、

下層社会とも交流を深めたのだ。

田中は酒好きで、また強かっ た

ようなのだ。

日本の赤ちょうちんに当たる

ような庶民の酒場に行き、

ロシアの庶民、あるいは

ロシアから抑圧されている

ポーランド人やフィンランド人

らと一緒にウォッカを痛飲して、

彼らから皇帝・貴族に対する

不平不満を聞き出したのだ。

対ロ諜報の任を終え、帰国した

田中は、ロシア研究の結論として

「ロシアの軍隊、恐れるに足らず」

と総括したのだ。

その理由として、

1上流階級の専制横暴と退廃、

2社会底辺の労働者や農民層の

積りに積った皇帝に対する

不平不満・怨念、

3ロシアから支配された

ポ ーランド人やフィンランド人

などの怨嗟【えんさ】の3つを

上げたのだ。

この三つの情報から導き出される

結論は、

「ロシアの内部には巨大な不満の

マグマが溜まっており、爆発寸前の

状態である」ということなのだ。

この田中が得た至極シンプルな

インテリジェンスこそが実は

明石工作を発動する根拠になるのだ

田中は、後の明石元二郎大佐の

工作を先取りするような場面・

振る舞いがあったというのだ。

田中は、ポーランド独立運動家と

酒を酌み交わしたそうだが、

一本気で短絡的な性格の彼は、

宴たけなわの頃、独立運動家たちに

向かって

「私たち日本帝国が日露戦争を

戦うとき、 諸君らは、ロシア軍に

参加して満州に行くか、

拒否してロシアに留まって

ポーランド独立の大業を企てるか、

どっちだ」と、

まるで彼らを扇動するかのような

アジ演説をしたというのだ。


いずれにせよ、田中は帝政ロシアが

抱える弱点・アキレス腱をズバリ・

的確に把握し、川上の期待に応えた

のだ。

残念なことに川上は田中の諜報成果を

承知することなく、一八九九年五月、

享年五二歳で世を去っていたのだ。

田中は帰朝後、一九〇二年六月から

参謀本部勤務となり、ロシア課主任として、

川上の遺志どおりにロシアでの

諜報成果を活用して対ロ作戦計画の

立案に没頭したのだ。

(心身統一法)の創始者である

中村天風【てんぷう】

(本名は中村三郎)は、

日清戦争 と日露戦争で大活躍した

軍事密偵(諜報員)でもあるのだ。

中村天風財団オフィシャルサイト

によれば、

「中村天風が創始した

『心身統一法」=天風メソッドとは、

「心と体を積極化 することで

人間が本来持っている『潜在勢力』

を引き出し、

幸福で充実した人生を作り上げる

ことができるものです。

一〇〇年以上にわたり、多くの方に

実践され続けてきたメソッドです。」

と説明しているのだ。


「心身統一法」で人生を切り開いた

人たちの中には、東郷平八郎、

原敬【たかし】、北村西望【せいぼう】、

双葉山、松下幸之助、広岡達朗、

稲盛和夫、松岡修造ら各界の著名 人

も多いのだ。

最近の人物では、

「四六本塁打・二五盗塁」

とメジャーリーグのエンゼルスで

大活躍をしている大谷翔平がいるのだ。

中村天風は、エネルーギーの塊の

ような人間で、子どものころから

喧嘩をすると、

相手の腕をへし折ったり、耳を

引き裂いたりするようなきかん気の

強い子だったのだ。

彼は子どものころから英語が得意

だったのだ。

父親が当時の造幣局長で、

印刷技術を教えるお雇いの

英国人技術者と遊ぶうちに、

自然と英語が達者になったのだ。

きかん気の強い天風に手を焼いた

両親は、福岡の親戚の家に預け、

修猷館【しゅうゆうかん】中学

(現在の修猷館高等学校)に

入学させたのだ。

修猷館では、授業はすべて英語で

行われ、天風の成績は優秀だったのだ。

また彼は体力と気力が充実しており、

柔道部のエースとしても活躍していた

のだ。

熊本の名門である

済々黌【せいせいこう】中学

(現在の済々黌高等 学校)との

練習試合で、

相手選手を次から次へと

投げ飛ばして勝利したのだ。

それで終われば良かったのだが、

腹を立てた済々黌の部員から

集団リンチに遭ったのだ。

それに黙っている天風ではないのだ。

リンチの様子を見ていた地元の人

から名前を聞き出し、一人ずつ

呼び出して決闘を行い、すべて

打ち負かしたのだ。

最後に残ったのは主将だったのだ。

相手は天風の復讐劇を聞いて恐れを

なし、決闘に出刃包丁を持参してきた

のだ。

出刃包丁で突進してくる相手と

もつれ合っているうちに、相手に

包丁が刺さってしまうという

悲劇が起きたのだ。

正当防衛ではあったが、結果として

済々黌の主将は命を失ったのだ。

警察は正当防衛として天風を罪に

問わなかったが、潔い天風は責任を

取って退学したのだ。

その後、一八九二年、天風は

右翼団体の大物・頭山満に

弟子入りするのだ。

右翼とは言っても、支那や

東南アジアの独立を意味する

「興亜」、

つまり、アジアを興すという

思想の持ち主だったのだ。

頭山は、アジア主義を掲げる

政治団体の玄洋社【げんようしゃ】

を主宰していたのだ。

天風は、玄洋社の中でも頭角を現し、

「玄洋社の豹」

の異名を持つほどだったのだ。

柔道だけでなく、6歳のころから

始めた剣術も達者だったのだ。

ちなみに、天風という名は、

随変流 抜刀術の

「天風【あまつかぜ】」

を得意技としていたことから

名乗るようになったのだ。

日清戦争

(一八九四年七月から一八九五年四月)

迫る中、陸軍の河野金吉中佐が

頭山のもとを訪れて

「お前の塾の中で一番強くて、根性、

気概のある男を一人選んでくれ」

と問うたところ、頭山は迷わず

「中村天風だ」と答えたのだ。

こうして天風は、一六九二年、

未だ一六歳で、帝国陸軍の

軍事密偵(諜報員)となり

河野中佐に随行して満州へ赴き、

大連から遼東半島に潜入して

錦州城や九連城の地形偵察を

重点的に行ったのだ。

この地形偵察の目的は、

「兵要地誌」の資料を収集すること

であったのだ。

「兵要地誌」とは、軍事作戦に

必須の情報が詳細に記入された

地図のことで、

道路の通行、海岸への着船、

水の供給、地誌一般、集落の人口

などが含まれるのだ。

河野中佐と天風は、

鴨緑江【おうりょくこう】の

渡河点を探すことも任務だったのだ。

日清戦争開戦後、日本が清国領内に

攻め込む際、朝鮮半島の釜山

【プ サン】に上陸して陸路を進み、

清国と朝鮮の国境を流れる鴨緑江を

渡河しなければならないために、

鴨緑江の渡河点を見極めることは

重要な任務だったのだ。

またその渡河点を援護できる要点

についても偵察を重ねたのだ。

情報(敵情と兵要地誌)

は戦争を行う上で決め手となるのだ。

河野中佐と天風が集めた兵要地誌は

日本軍の作戦に大いに役に立ち、

戦勝に貢献したのだ。

天風は、この約一年間の偵察活動の

間に、中国語会話をマスターしたのだ。

このことが、日露戦争における

軍事密偵としての活動に役に立つのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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