どうも村田です
梅機関とは
影佐禎昭【さだあき】大佐
(陸士二六期)によって日中戦争時
に設立された特務機関で 影佐機関
とも呼ばれるのだ。
影佐大佐は情報のエキスパートで、
最終階級は中将なのだ。
影佐機関を中心として、
日中戦争での戦局を打開するために、
中国国民党内の親日派で 国民党
ナンバーツーであった
汪兆銘【おうちょうめい】
をトップに据えた親日和平派の
政権づくりの工作が一九三九年から
翌年にかけて上海で進行していた
のだ。
それに対して国民党
ナンバーワンの蒋介石は、
直属の情報・工作機関である
蘭衣社【らんいしゃ】とCC団を中心に、
親日派の暗殺をもって対抗したのだ。
CC団とは、一九二七年に
陳果夫【ちん・かふ】、
陳立夫【ちん・りつふ】兄弟によって
組織された国民党最右翼を代表する
政治結社で、
藍衣社とともに、蒋介石独裁を
維持する役割を担ったのだ。
土肥原機関
ハルビン特務機関長や奉天機関長を
歴任した土肥原賢二中将によって
一九三八年六月に設立された
特務機関であるのだ。
蒋介石の本拠がある南京から
遠い北の地域―河北省・
察哈爾【ちゃはる】省・
綏遠【すいえん】省・山西省・
山東省――
を中国国民党政府から分離させ、
日本の影響下に置く
「華北分離工作」などを行ったのだ。
土肥原特務機関のように、
指揮者の名前が名称になる
場合もあったのだ
ゼスフィールド機関
日中戦争下の上海で、日本軍に
よって設立された対重慶特務工作機関
なのだ。
後に汪兆銘政権
(一九四〇年三月三〇日から
四五年八月一六日)が樹立されると、
正式な政府機関となり、
国民党中央委員会特務委員会
特工総部と称したのだ。
日中戦争下の上海では、藍衣社や
CC 団による抗日テロが頻発しており、
対応に苦慮した日本軍当局は、
一九三九年、親日派中国人による
取締機関を設立するのだ。
本部が共同租界のジェスフィールド路
七六号にあったことから、その住所が
そのまま呼称となったのだ。
元国 民党特務の経歴を持つ
丁黙邨【ていもくそん】主任、
李士群【りしぐん】副主任
(後に主任)
らの敏腕によって抗日テロリスト
を次々と粛清し、重慶側工作員に
恐れられたのだ。
甘粕機関
甘粕正彦元陸軍大尉(陸士二四期)
によって設立された民間の特務機関
なのだ。
甘粕は足の怪我を理由に歩兵を諦め、
憲兵の道を選ぶのだ。
甘粕が大尉のとき、関東大震災直後の
一九二三年九月一六日に、震災の
どさくさに紛れて、
社会主義思想家で日本の代表的な
アナキストだった大杉栄と
内縁の妻だった伊藤野枝に加え、
6歳の息子を殺害して井戸に
遺体を投げ込んだのだ(甘粕事件)。
事件では陸軍や憲兵の責任は問われず、
すべて甘粕の単独犯行として処理され、
同年禁錮一〇年の判決を受けたのだ。
一九二六年一〇月に仮出獄し予備役
となり、一九二七年七月から陸軍の
予算でフランス に留学するのだ。
一九三〇年、フランスから帰国後、
すぐに満州に渡り、南満州鉄道
東亜経済調査局奉天主任となり、
さらに奉天の関東軍特務機関長
土肥原賢二大佐の指揮下で情報・
謀略工作を行うようになるのだ。
また、後に柳条湖事件や自治指導部
などで満州国建国に重要 な役割を
果たす右翼団体の大雄峯会に入るのだ。
大雄峯会は、一九二九年に当時の
関東州大連で二〇歳代の帝国大学
出身の南満州鉄道社員を中心に
結成された右翼団体で、
仏教的精神主義にもとづく、
日本内地の革新と大アジア主義を
めざしていたのだ。
甘粕はそのメンバーの一部を
取り込み、甘粕機関という民間の
特務機関を設立したのだ。
一九三一年九月、関東軍の謀略
による柳条湖事件により始まる
満州事変の際、
ハルビン出兵の口実作りのため
奉天に潜入し、中国人の仕業に
見せかけて数箇所に爆弾を
投げ込んだのだ。
甘粕はその後、
清朝の第一二代皇帝宣統帝の
愛新覚羅溥儀
(一九二四年に馮玉祥が起こした
クーデターにより紫禁城を追われ、
一九二五年以降に天津に幽閉
されていた)
を満洲国の執政(皇帝)に擁立する
ために、極秘理に連れ出すことに
成功するなどの活躍を見せたのだ。
甘粕はその働きを認められ、
一九三二年の満州国建国後は、
民政部警務司長(警察庁長官に相当)
に大抜擢され、表舞台に登場する
のだ。
満州唯一の合法的政治団体である
満州国協和会が創設されると
その理事になり、
一九三七年には中央本部総務部長に
就任したのだ。
また、 一九三九年には、
満州国国務院総務庁弘報処長
武藤富男と総務庁次長岸信介の
尽力で満洲映画協会(満映)の
理事長にもなるのだ。
甘粕は満州国の黒幕的存在で、
関東軍をもバックに付け、
茂川機関や松機関と協力して、
阿片を中国国内で密売し、
莫大な資金を集め、これを元手
として情報面で関東軍をサポート
したのだ。
映画業界(満映理事長)が表の顔
であれば、阿片の密輸は裏の顔
であったのだ。
ポツダム宣言受諾直後、
甘粕は満映社員を全員集め
「皆さんのお世話になったことを
深く厚く御礼申し上げます」
と挨拶したのだ。
そのあとに身の回り品を形見として
一人一人に配 り、社内の預金を
退職金として全額引き出したのだ。
部下は甘粕が自殺しないよう
見張ってい たが、二〇日早朝、
隠し持っていた青酸カリで
服毒自殺し、
波乱万丈極まりない人生の幕を
閉じたのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる