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印象づけたんじゃ

どうも村田です

明石機関とは

明石元二郎大佐が日露戦争中に

対ロシア工作のために創設した

特務機関のことであるのだ。

特務機関とはいえ、メンバーは

駐ロシア公使館付駐在武官の

明石ただ一人だったのだ。

一九〇四年、日露戦争が開戦すると

公使館は中立国スウェーデンの

ストックホルムに移り、以後

この地を本拠として活動したのだ。

諜報員は明石ただ一人だったが

工作資金は巨額だったのだ。

その金額は当時の国家予算が

約二億三〇〇〇万円の時代に、

一〇〇万円程

(令和三年度の一般会計の総額

一〇六兆六〇九 七億円に換算すると

約四六〇〇億円に相当)

の巨費であったのだ。

これは、明石工作の重要性を深く

理解・認識した参謀総長山縣有朋、

参謀次長長岡外史らの決断により

参謀本部から支給されたのだ。


明石は、帝政ロシアについての

多角的な研究・諜報活動を通じ、

帝政ロシアの状況(弱点)を――

「腐敗した過酷な専制政治に苦しむ

国内の農奴や労働者らはもとより、

ポーラ ンド、フィンランド、

コーカサス、バルト海沿岸の被支配

地域の国民の不満は頂点に達しており、

革命前夜のごとき状況にある」

と分析・結論付けたのだ。

そのうえで、ロシア皇帝の足元を

揺さぶるため、不平党

(明石は、参謀本部に提出した

落花流水と題する報告書で、

レーニンなどを含む十五の反政府党

・勢力を不平党と呼んだ)

の人たちに資金や武器を渡すなどして

国内攪乱のための諜報・工作活動を

展開したのだ。

明石の工作は、後にレーニンによる

ロシア革命に繋がることになり、

まさに世界史を変革するほどの

影響を及ぼしたことになるのだ。

そんな明石のロシア工作を最も

助けた最大の「同志」となった

のは芬蘭土(フィンラン ド)

過激反抗党の党首にして指導者の

コンニ・シリヤクスだったのだ。

明石とシリヤクスは、

抱き合うほどの仲となって

協力関係を築いたといわれるのだ。

シリヤクスは事実上の明石機関の

メンバーだったのだ。

日露戦争では、日本海軍は

ロシア帝国の主力艦隊である

バルチック艦隊を日本海海戦で

撃滅したのだ。

また陸軍は、最終的には奉天会戦で

クロパトキン大将率いるロシア軍を

撃退し 奉天を占領したが、ロシア軍の

撃滅には失敗したのだ。

ロシアは負けたように見えるが、

これら陸海軍の敗戦は遠隔地の

極東アジアでの出来事であり、

ヨーロッパに位置する超大国の

ロシアにとっては、致命的な

痛手にはならないのだ。

シベリア鉄道経由で人員と物資を

次々と送り込めば、日本とは延々と

戦争ができるのだ。

一方の小国日本は、そこまでの

体力はないのだ。

奉天会戦までが戦力投入と兵站補給が

できる限界であり、奉天を超えて

バイカル湖を渡り、ウラル山脈を

超えて西に侵攻していくことなど

ありえないことだったのだ。

日本から朝鮮半島を経由して

一万キロメートル以上にもなる距離を

延々とシベリア鉄道を逆利用して

(ロシアが破壊せずに無傷で

使えると仮定して)

約三〇万人にも及ぶ満州軍の

兵員と兵站物資を運び、

ヨーロッパでロシア軍と戦うことなど

想像できるだろうか。

大国ロシアに比べれば、日本は

虚弱な国だったのだ。

国土は狭小で人口も少なく、資源も

ない国がロシアと二年も三年も

戦争を続けることはできなかったのだ。

ロシアに勝利する

(あるいは交渉により有利に

終戦に持ち込む)ためにはツアーの

足元を揺さぶらない限り、不可能

だったのだ。

そのような国家の運命を左右する

超重大任務を遂行する役目に、

当時フランス武官だった

明石元二郎大佐に白羽の矢を立てたのだ。

明石はロシア公使館付武官として

工作を開始したのだ。

明石は不平党・勢力を一堂に集めた

会議を二度も裏方として主催し、

互いにいがみ合う これらの党・勢力の

ベクトルを一つに集約・結合させたのだ。

第一回目の会議は、

一九〇四年一〇月にパリで実施したのだ。

議長はシリヤクスが務め、各党派の

意見を上手く集約し

「各党派がそれぞれ得意とする分野、

手段で運動を展開する」

ことで合意したのだ。


勿論、明石は会議には顔を出さ

ず裏方に徹し、シリヤクスを

通じ差配したのだ。

明石は抜かりなく各党派が喉から

手が出るほど欲しがっている

活動資金援助を約束したのだ。

会議の効果はすぐに現れたのだ。

ポーランド社会党は労働者の

ストライキを指導し、それを

鎮圧しようとしたロシア軍の憲兵隊、

軍隊と衝突したのだ。

これが、抵抗運動展開のいわば

引き金となり、全国に騒乱が

燃え広がったのだ。

ロシア革命社会党はキエフ、オデッサ、

モスクワの各都市でデモ行動を指揮し、

更に大学生を扇動して騒乱を拡大したのだ。

ロシア自由党も州郡会、代言人会、

医師会の集会を催し、政府を攻撃し、

言論によって激しい揺さぶりをかけたのだ。

コーカサス地方では、官吏の暗殺が

一日に十件を数えたのだ。

ここに至って、パリ会議には参加

しなかったロシア民権社会党も

工場労働者にストを呼び掛けたのだ。

圧巻は、「血の日曜日事件」

であろう。

一九〇五年一月九日、

首都サンクトペテルブルクで

ガボン神父率いる労働者約六万人が、

皇宮へ平和的な請願行進している最中、

政府当局に動員された軍隊が発砲し、

一〇〇〇人以上の死傷者を出したのだ。

これが、ロシア第一革命のきっかけ

となったのだ。

この事件は、ロシア皇帝を震え上がらせ、

ロシア政府の威信失墜を内外に印象付けた

のだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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