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言われとんじゃ

どうも村田です

中野学校は、特務機関

などに必要な諜報要員を

養成・供給する機関であり、

登戸研究所は、その諜報要員

らが使用する資器材を開発する

機関だったのだ。

それゆえ、中野学校と

登戸研究所は密接不離の

関係にあったのだ。

登戸研究所が開発した

諜報に使用するアイテムは

約200点にもおよび、

実戦に投入されたというのだ。

その一部を紹介すると

無線傍受用全波受信機、

スパイ用無線機、

不法電波探索用探知機

(国内にいるスパイが使っている

電波を見つけるための探知機で、

ゾルゲ諜報団摘発の決め手になった)、

携帯用録音機、

紫外線/赤外線型秘密インク

(秘密文書を敵に見つからずに

渡すために、紫外線を当てると

文字が浮かび上がる特殊インク)、

マイクロ写真機

(暗号解読に必要なコードブック

などを撮影するための超小型カメラ)、

小型擬装写真機

(ライター型、マッチ型、

ステッキ型、カバン型など)、

望遠用写真機、夜間撮影用暗

中写真機(未実用)、

時計式時限信管、温度信管、

偽装拳銃(万年筆型、ステッキ型など)、

毒針を仕込んだ万年筆

(敵殺傷・自殺用)、

破壊工作に使われた缶詰型爆弾など

なのだ。

この他に、登戸研究所は太平洋を

横断してアメリカを攻撃するための

「風船爆弾」までも開発していた

のだ。

陸軍のものは、直径一〇メートル

の風船に水素ガスを入れ、総重量は

二〇〇キログラムだったのだ。

一九本のロープで吊り下げた

兵装は一五キログラム爆弾一発と

五キログラム焼夷弾二発であるのだ。

実は、参謀本部では、生物兵器の

使用も考えていたというのだ。

登戸研究所では、炭疽菌、ペスト等

の搭載を想定したが、実際には

牛痘ウイルス二〇トンを製造し

使用可能な状態まで完成していた

というのだ。

一九四四年一〇月二五日の

梅津美治郎参謀総長の上奏に

際して昭和天皇は風船爆弾を

使用する作戦自体は裁可した

ものの細菌の搭載を裁可せず、

細菌戦(生物兵器の使用)

は実現しなかったというのだ。

この風船爆弾開発に関わった

一人である鈴木桃太郎博士は、

「風船爆弾は俺がこれを作ったんだ」

と言われていた記憶が頭の

片隅に残っているのだ。

ちなみに、この鈴木桃太郎先生

のご尊父は、鈴木梅太郎博士で、

ビタミンB1を発見して、脚気の

予防に貢献された方なのだ。

和紙とこんにゃく糊でつくられた

風船爆弾は、大気高層のジェット

気流に乗せて米国本土を攻撃

するために開発されたのだ。

日本から約八〇〇〇キロメートル

以上も離れたアメリカを「風任せ」

で攻撃するのは至難の業だったに

違いないのだ。

ちなみに、風船爆弾の他に

アメリカ本土を攻撃したのは、

伊十五型潜水艦搭載の小型水上

偵察隊で、一九四二年の七月と

九月の二度に渡り、

米国本土のオレゴン州あたりに

焼夷弾攻撃を行ったというのだ。

これは、一九四二年四月一八日に、

空母「ホーネット」より発艦した

ドーリットル隊所属のB二五爆撃機

が日本本土を空襲したことに対する

ささやかなリベンジであったのだ。

日本は、一九四四年一一月から

翌年三月にかけて、約九三〇〇発

もの風船爆弾を投射したのだ。

約一〇%、数にして一〇〇〇発

弱の風船爆弾が米国本土、

アラスカ、カナダに到着。

オレゴン州ではこの風船爆弾

によって民間人六名が死亡したのだ。

また、後に広島と長崎に投下

された原子爆弾を製造する工場

(ワシントン州リッチランド

のハンフォード工場)

の送電線に風船爆弾が引っかかった

が、停電を引き起こしただけで、

大きな被害を与えることができず、

原子爆弾の製造を遅らせることは

できなかったのだ

(予備電源に切り替えたため)。

他にも停電を起こさせたり、

山火事になったりなど、判明して

いるだけでも全米各地の軍事

施設に何十件かの損害を与えた

といわれるのだ。

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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