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触れとくんじゃ

どうも村田です

中野学校創設の主務者

である岩畔中佐、秋草中佐、

福本中佐について簡単に

れておきたいのだ

岩畔豪雄中佐は、

万能・異能の持ち主で、

同僚や部下から

「いかなる分野でも、名案尽きる

ことなく溢れ、格調の高い名文章を

書ける奇抜な軍人」

という評の他、

「豪気果断、 俊敏、柔軟性、

軍人離れのした逸材」

という声望を得ていたのだ

一九四一年には、

駐米日本大使館付武官補佐官

として日米交渉にあたり、

日米交渉の諒解案を作成したほど、

優れた頭脳・文才の持ち主だったのだ。

日米交渉で岩畔に接したアメリカ

国務長官のハルは

「あんな優秀な部下がいたら

どんなに助かるだろう」

とよく漏らしたそうなのだ。

日本の諜報活動の事実上の総責任者

であった岩畔は、自身の

「謀略の岩畔」との異名について、

「表面的には何も起きていないか

のように物事を進めるべきであり、

『謀略』というよりむしろ

『工作活動』というべきだろう」

と言っていたのだ。

岩畔は早くから諜報・工作の経験が

あったのだ。

中佐時代の一九三六年、

外国大使館の盗聴や郵便検閲、

偽札製造などの諜報活動に

従事したのだ。

岩畔中佐は一九三七年一一月、

参謀本部第八課に異動したのだ。

第八課は諜報・謀略を取り 仕切る

部署であり、中国国民党の蒋介石に

対抗する人物・

汪兆銘【おうちょうめい】を支援

して、日中関係を重視する

親日政権を樹立する工作に従事

したのだ。

陸軍中野学校の開設を主導した

ことに加え、極秘の防諜機関である

「ヤマ機関」の設立も主導したのだ。

さらに、一九三九年には

登戸研究所を設立したのだ。

登戸研究所は、後ほど述べるが、

謀略のための資器材を研究・開発

をする部署であるのだ

さらに岩畔は、陸軍省軍事課長

の時、特務機関の昭和通商の設立

(一九三九年)を主導し、

その運営を指導したほか、

マレー作戦

(一九四一年一二月八日から

翌年二月一五日)

終了後、インド工作の特務機関

であるF機関を引き継いで

岩畔機関を立ち上げ、

主にインド国民軍の発展や指導・

教育を行い、インド独立に備えたのだ。

岩畔は、このように諜報・工作組織の

設立のみならず諜報・工作の実行に

ついても見事な手腕を発揮しているのだ。

この分野で、岩畔の右に出る

軍人はいないのだ。

「戦陣訓」

(軍人としてとるべき行動規範)

も岩畔中佐が発案したといわれるのだ。

戦後は、京都産業大学の

設立者の一人になったのだ。

秋草俊中佐(陸士二六期)

は陸軍士官学校卒業後、

陸軍依託学生として

東京外国語大学でロシア語を

学んだのだ。

その後、ハルビン特務機関で

諜報活動に長く従事し、

「陸軍随一のソ連専門家」

と評される存在であったのだ。

陸軍中野学校の前身である

「後方勤務要員養成所」

の初代所長になり、

その2年後の一 九四〇年に

ドイツに赴き、特務機関の

星機関を立ち上げたのだ。

ドイツは、後にソ連に侵攻した

ことでもわかるように、ソ連に

対する諜報や工作がしやすい

場所だったのだ。

秋草は、関東軍情報部長

(ハルビン特務機関長)

という立場で終戦を迎えるのだ。

敗戦後、 逃亡を勧める部下の

進言を断り、ソ連に投降して

抑留されたのだ。

秋草は文字通り対ソ諜報の

スパイマスターであり、ソ連軍は

昼夜を分かたぬ厳しい取り調べを

行ったのだ。


一九四九年三月二二日、

モスクワ州のウラジーミル監獄に

おいて五六歳で獄死したのだ。

最終階級は陸軍少将だったのだ。


彼を

「後方勤務要員養成所」

の初代所長に据えたことが、後に

陸軍中野学校が諜報要員養成に

おいて素晴らしい成果を上げる

基となったのは間違いないのだ。

今日、日本の情報機能強化を図るに

あたっては、秋草の足跡をたどる

ことが不可欠だと信ずるのだ。

福本亀治中佐は、憲兵隊の

東京憲兵隊特高課長からの

異動だったのだ。

憲兵隊は、日本共産党員などの

動きを監視し、取り締まる役割

だったため防諜のノウハウを

持っていたのだ。

福本 中佐は、

二・二六事件で皇道派の

真崎甚三郎大将を取調べたほか、

事件以前から青年将校らの

監視の任に就いていたのだ。

福本中佐は諜報行為も経験しているのだ。

中佐は、麻布狸穴の駐日ソ連大使館

に出入りしていた元タス通信の

大倉旭を協力者にし,ソ連の

外交暗号を盗撮すべく憲兵を

潜入させたが結果は失敗だったのだ。

また、福本は,憲兵隊きっての

共産主義研究者として知られたのだ。

福本は防諜のスペシャリストとして、

中野学校教育の基礎を作ったわけ

なのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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