どうも村田です
諜報・謀略が大きな成果を生み、
その必要性と重要性が認識されて
いったのだ。
一九二四年、レーニンが死去すると、
ヨシフ・スターリンが引き継いだが、
スターリンは一層コミンテルンによる
諜報・謀略に力を入れたのだ。
その成果の一端は、一九三三年から
一九四一年にかけて、ソ連の諜報員
ゾルゲが日本で暗躍したことなのだ。
ゾルゲは、ジャーナリストの身分で
日本に潜入し、ナチス党に入党して
ドイツ大使館の信頼を強固にする
などでスパイであることを偽装し、
ゾルゲ諜報団と呼ばれる情報網を
構築したのだ。
ゾルゲは、ドイツ軍によるソ連侵攻
(バルバロッサ作戦)
の正確な日付を伝達したほか
「日本軍には極東でソ連を
攻撃する計画がないこと」
を的確にロシア連邦軍参謀本部
情報総局(GRU)に伝え、ソ連の
対日・独戦略に顕著な貢献をしたのだ。
日本は一九三七年に日中戦争、
一九四一年には大東亜戦争へと
突き進んでいくわけだが、
日中戦争が開戦された翌年の
一九三八年になって、ようやく
陸軍中野学校が設立されたわけなのだ
(当初の名称は「後方勤務要員養成所」)。
要するに日本は、ソ連の
「クートヴ ェ」
に遅れること一七年で、ようやく
諜報・謀略を教育する学校が
生まれたのだ。
あとで中野学校の卒業生たちの
活躍を紹介するが、もし
中野学校の設立がもっと早かったら、
仮に一〇年以上も早かったら、
日本の対米・英・ソ連外交・
軍事戦略(大東亜戦争の回避を含む)
や大東亜戦争の戦況、さらには
戦後日本のあり様は大きく変わっ た
のではないか考えているのだ。
大東亜戦争開戦時の中野出身一期生の
階級は大尉終戦時は少佐であったのだ。
もし一〇年以上も早く中野学校が
設立されていれば、広い視野、
柔軟な思考力、物事を実現する
行動・実行力などを有する
中野卒業生の中には大佐や少将
が現れていた可能性があり、陸軍内での
発言力も相当にあったと思うのだ。
日本にとっての主敵は、満州のソ連と
支那の蒋介石・毛沢東だったのだ。
明治建国以来、日本の最大の仮想敵国は
ロシア帝国、次いで日露戦争以降は
ソ連に切り替わったのだ。
ソ連の脅威は軍事のみならず
共産主義イデオロギーの「感染力」
であったのだ。
共産主義のイデオロギーは、
今までになかった思想であり、
前に述べたように「感染力」が 強く、
特にインテリ層には急速に感染が
拡大し猛威を振るったのだ。
満州正面における
「外側からの」
ソ連の軍事的脅威もあったが、
明石元二郎が行った謀略と同様に、
日本国内においても、天皇制を
打倒・転覆し革命を実現しようと
する日本共産党の脅威もあったのだ。
ソ連の脅威を防ぐためには
対外諜報もさることながら、
日本国内のスパイ・共産主義者を
取り締まるための防諜体制を強化
する必要に迫れるようになったのだ。
対外諜報としては、シベリア出兵
(一九二二年)を機に、ソ連国境沿いの
中国領内に東 は綏芬河、
北は黒河、西は満州里に特務機関が
開設され、対ソ・対中国情報機関
としてハル ビン特務機関が誕生し、
活動を開始したのだ。
ハルビン特務機関は対ソ情報の中心とされ、
一九四〇年に関東軍情報部として編制化
されたのだ。
支那には、蒋介石の国民革命軍と
毛沢東の八路軍・新四軍の2つ以外にも
軍閥が存在したのだ。
日本の戦国時代さながらに、
各地域で軍閥が勢力をふるう
群雄割拠の状態だったのだ。
日本軍としては、これら互いに
牽制し合う軍閥に対して、
さまざまな謀略・工作を行う
必要があったのだ。
陸軍の支那に対する工作の目的は、
満州でソ連と戦う場合、支那の勢力を
「中立」、可能なら「親日」にする
ことだったのだ。
明治期後半から、陸軍は中国各地の
地方政権や軍閥に軍事顧問(団)を派遣
したのだ。
例えば袁世凱政権・張作霖政権等
には先方からの「招聘」という
形式で軍事顧問団(特務機関)
が派遣されていたのだ。
一九二〇年に設置された
奉天特務機関は中国東北における
対中情報・謀略の中心であり,
とくに満州事変から日中戦争初期に
活動したが,一九三七年一二月には
廃止されたのだ。
満州事変当時に溥儀【ふぎ】の
脱出工作を行った天津の
土肥原機関は臨時に派遣された
工作班で,臨時特務機関と
呼ばれたのだ。
一九四一年、日本はアメリカによる
石油の完全禁輸措置により、
石油資源の獲得が必須となったのだ。
日本は、大東亜戦争の緒戦において、
自存自衛のために、インドシナの石油を
はじめとする資源獲得に向け、南方作戦
を発動・開始することと決したのだ。
孫子の
「戦いは正(正規軍・作戦)を以って合い、
奇(謀略など)を以って勝つ」
の訓え通り、
戦いに勝利するためには陸海軍の
正規部 隊のみでは不十分で
「奇」を担当する特務機関が
不可欠だったのだ。
この特務機関の中核要因となったのが
中野卒業生だったのだ。
中野卒業生は、期待に違わず
「一人で一個師団以上」
の戦果をあげたのだ。
日本がソ連、中国、米国といった
大国と戦う場合、兵士の数も資源の
量も敵わない。
長期化すればするほど、戦力の差は
致命的になる。
迫り来る対米英戦争
(大東亜戦争)
を前 に、日本は遅まきながら、
日露戦争における明石大佐の
偉業に倣い、諜報・謀略を
活用することが不可欠であると
認識するに至ったのだ。
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる