どうも村田です
もう1つは、名将の話
なのだ
要するに立派な軍人です
こういう人たちについて
彼は書いているのだが、
これも同じく楠木正成、
大楠公が登場してくるのだ
この楠木正成が軍人として、
要するに将軍として優秀
だったということは、
言ってみれば、最初に
挙兵した時にいろいろな
ゲリラ戦術を駆使して、
北朝方の軍隊と戦った、
あるいはその後、寝返った
足利軍と戦ったという
ところで、敵を常に
悩ませているのだ
正規な戦いではなかなか
勝てないので、ゲリラ戦で
勝っていくのだが、
そういう戦術の仕方が、
多分荒木大将が楠木正成を
尊敬している理由になると
思うのだ
それから、北条時宗と
無学祖元について書いて
いるのだ
無学祖元は坊さんだから
軍人ではないけれど、
北条時宗も鎌倉幕府の
第8代執権だから、軍人
というよりは政治家なのだ
ちょうど2人の時は、
かの元寇、蒙古襲来が
あった時なのだ
これを国を挙げて撃退した
わけだが、北条時宗は大変
悩むのだ
その時に、無学祖元が
「悩むな」と言って、
書いたものを時宗に送って
戒めて、悩んだ気持ちは
吹っ切れて、
最後は蒙古と戦って撃退
するということになったのだ
北条時宗は、実はモンゴルと、
当時の蒙古軍と戦うことは
負けるのではないかと
思っていたのだ
従って、
「どこかと講和を結べないか」、
あるいは
「停戦できないか」
ということを考えていたのだが、
「そんなことはいかん」
ということを無学祖元が強く
進言して、蒙古襲来を撃退
するということができたのだ
ということなのだ
彼というのは荒木貞夫だが、
荒木貞夫は
「この2人を尊敬している」
と言ってるのだ
無学祖元というのは、
もともと南宋の坊さんで
シナの南宋の坊さんだが、
彼は元が、それこそ
モンゴルだが、その元が
南宋に攻め込んだ時に、
彼は一心不乱にお経を
唱えていて、
元の兵隊が彼には手を
出せなかったと言われて
いるのだ
そのことを伝え聞いて、
北条時宗は無学祖元を
鎌倉に招聘(しょうへい)
するのだ
そうして無学祖元が日本に
来たら、その後に今度は
モンゴルが日本に攻めて
きたということなのだ
その後、無学祖元は
建長寺の住職になり、
元寇が終わった後は、
元寇で戦って亡くなった人を
弔うために鎌倉の円覚寺を
造って、初代の開山となった
というわけなのだ
さらに、荒木大将は
上杉謙信を大変尊敬していて、
上杉謙信は
「戦国時代の武将で最も最強」
と言われた武将なのだ
この人も名利を求めないのだ
義に厚く、戦争で勝ち負け
をすることよりも、人情
というものを非常に尊んだ
人なのだ
だから、山国である今の
山梨県の甲斐の国の
武田信玄に塩を送った
という話があるけれど、
これも人間としての
レベルの高さというもの
を上杉謙信に見て取れ
るのだ
それだけではなく、
上杉謙信というのは、
実は戦国時代の戦いで
1回も負けていないのだ
織田信長にも手取川の
戦いで勝っているから、
そういう点では
上杉謙信の偉大さ
というものを荒木さんは
よく見ていたということ
だろう。
さらに、加藤清正で
加藤清正は、いわゆる
豊臣秀吉の子飼いの
武将だが、
天正11年、1583年の
いわゆる豊臣秀吉の前
である羽柴秀吉が
柴田勝家と戦った賤ヶ岳の
戦いがあるが、
「賤ヶ岳七本槍の1人」
と言われた武将なのだ
同時に、朝鮮出兵で
文禄・慶長の役で、
朝鮮の出兵でもって
武勇をうたわれた武将
でもあるのだ
彼にはこういう
エピソードがあって、
加藤清正は書いている
のだ
「慶長16年3月、秀頼公が
徳川家康と京都で会見
することになった時、
清正は秘書として
秀頼に陪従した」、
お供したということなのだ
「無事に会見が終わった時、
あいくちを懐中から出して、
『太閤の厚恩を今日にして
報ずることができた』
と泣いたそうである。
こういう一本気な、
ひたむきな心からこそ、
はじめて鬼上官と
うたわれたような真の勇気
が生まれてくるのである」。
要するに、豊臣秀頼は
秀吉が亡き後、まだ
子どもだったのだが、
確か京都の二条城で
徳川家康と会見をするのだが、
その時に清正は豊臣秀頼に
くっついて行くわけなのだ
その時に、
「万が一、徳川家康が
秀頼に何か変なことを
しようと、
あるいは侮辱するような
ことがあったら、懐に
入れているあいくちで
家康を刺そうと思ったんだ。
でも、そういうことが
なくてよかった」
ということで、
「豊臣秀吉から受けた恩を
報いることができたと
言って泣いた」という話なのだ
こういうふうに
「武人はすべからく君主
でなくてはならない。そして、
立派な人でなくてはならない。
ただ、強ければいいと
いうものじゃないんだ」
ということを彼は言って
いるわけなのだ
さらに、木村重成で
この人は現代ではあまり
知られていないのだが、
豊臣秀頼が大坂城に
立てこもった大坂冬の陣、
夏の陣があるが
夏の陣で最後豊臣方は
滅びるのだが、この大坂
夏の陣で戦った大坂方の
秀頼方の武将なのだ
彼は、かなり年配だった
のだが、最後は討ち取られ、
戦死してしまって、首を
取られるのだ
家康の所にその首が
運ばれていって、
「木村重成の首です」
と言って、見せられたのだ
家康がその首を見ると、
髪の毛の月代(さかやき)
がきれいにそってあって、
要するに、無精ひげみたい
にチャラチャラ生えていない、
きれいにそってあるのだ
そして、体に香が
たきしめてあるのだ
だから、生首ではあるのだが、
いい香りがするのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる