どうも村田です
世界の戦争の歴史の中で
画期的なことだったのだ
第二次世界大戦でもっと
明らかになったが、これを
見て、陸軍も海軍も大変に
ショックを受け、
「今のままの日本のこの
体制では、とても次の
戦争は戦えない」
ということで、
国民国家であることは
もちろんだが、どういう
新しい国家体制をつくって
いかないといけないのか
ということを真剣に
考えるわけなのだ
この時統制派が考えた
ことは、後に斬殺される
永田鉄山少将であるとか、
あるいは後に首相になる
東條英機であるとか、
あるいは同じく永久戦犯で
処刑された武藤章であるとか、
いわゆる陸軍官僚と
言われるような人たちだが、
こういう人たちは
「経済力というものを
高めていって、そして
国家総動員をして
1人1人の国民も含めて、
日本全体が大きな大きな
経済大国的なものになって
いかないと、
とてもではないけれども、
世界のほかの国と
戦っていけない」
ということを
考えていくわけなのだ
それに対して、統制派の
考えはもちろんなのだが、
経済力を高めるのは当然なの
だが、
その前には国民1人1人の
意識というものをもっと
高めなくてはいけない、
特に日本は天皇が存在
している国であるから、
その天皇を中心とした
国家体制、国体、
皇謨(こうぼ)という
言葉を使うが、
天皇の意向なのだ
そういうものを……
天皇というのはこの場合、
その個人の天皇を指して
いるのではないのだ
よく「天皇、天皇」というと、
個人の天皇と間違われる
のだが、歴史の勉強をするとき、
特に昭和の明治、大正、
昭和の歴史を勉強するときに、
「天皇」という言葉は
個人ではなくて、イデア
としての天皇だというふうに
理解しなくてはいけないと
思うのだ
例えば、
「天皇陛下万歳」
と言って特攻隊が死ぬ、
特攻隊が突っ込むという
時も、それは
「昭和天皇万歳」
ではなくて、天皇という
イデア、一種の象徴としての
言葉としての天皇、
意識としての天皇、
イコール・日本国、
あるいは日本国民、
あるいは民族
というものと、天皇は
ほぼイコールとして
認識されている
というふうに考えるのだ
「そういう天皇を中心とした
国家体制というものをつくって
いかなくてはいけない。
そっちの方が先決なのだ」
というのは、どちらかと
いうと皇道派の考え方で
あるのだ
こういう中でもって
荒木貞夫大将は皇道派の
頭目というふうに
見られていたのだ。
頭目という言い方はどうか
と思うが、荒木貞夫大将は
同じ陸軍士官学校同期で
かつ陸軍大学校でも一緒
だった、
真崎甚三郎大将とともに
皇道派のボスとして
見られていたのだ。
しかし、その後病気になり、
昭和9年には病気を理由に
して陸軍大臣を辞任して、
軍事参議官になったのだ
そしてなぜか昭和10年には
今までの功績ということで、
彼は男爵に授けられて華族に
なったわけなのだ。
軍人が華族になることは、
あまりいいとは思わないが、
彼は男爵になったのだ
そしてその翌年、何と
二・二六事件が起こり、
そして彼は
「二・二六事件で
皇道派を主導した」
と言われたのだ。
二・二六事件を起こした
のは皇道派の将校たちだから、
彼に責任があるということで、
退役、予備役に編入された
ということなのだ
この時、彼は軍事参議官だが、
陸軍省に行くのだ
そこに石原莞爾大佐がいたのだ。
石原莞爾大佐が先輩であり
上官である荒木大将に向かって
「貴様の無責任な言動が
このような事件を起こしたんだ」
と怒鳴られるわけなのだ
荒木さんからすると、自分の
12年後輩で、しかも自分は
大将で相手は大佐だから、
彼に「貴様」と言われて、
しかもタメ口をきかれて、
激高して
「上官に向かってその口の
聞き方は何だ。軍紀がなっとらん」
と怒るわけなのだ
軍紀というのは軍隊の
中の規律ということだが、
「軍紀がなっとらん」
と言って怒るのだ
そうすると石原大佐が
「軍紀がめちゃくちゃだがら、
こんなことが起こったのでは
ないか。今さら軍紀もくそも
ないものだ」
といったことを怒鳴り
返すわけなのだ
石原莞爾という人はある意味
天才肌な人であるが、非常に
変わっている人でもあったし、
傲慢だったことで有名な人だが、
いつも明るく元気な荒木大将
としては、その石原大佐の
上官に対する無礼な発言に対して、
何もその後言い返せなかった
という話があり、あの
二・二六事件における
荒木大将の一気に立場が
悪くなった状況を象徴して
いるというふうにも言われて
いるのだ。
にもかかわらず彼はなかなか
人気があり、その翌年の
昭和12年には盧溝橋事件が
起こって
支那事変が始まるわけだが、
翌昭和13年には近衛内閣で
文部大臣になったのだ
その後、近衛内閣が倒れて
平沼騏一郎内閣になるが、
そこでも引き続いて
文部大臣になるのだ
さらに、
国民精神総動員体制の
委員長にもなって、
皇道派のボスとして
いろいろ言われては
いながらも、
なかなか国民的な人気が
あって、終戦のときまで
枢要な地位を占めていた
というわけなのだ
戦争が終わり、彼はGHQから
戦争犯罪人の指定を受けて
永久戦犯になって、終身刑の
判決を受けたのだ。
昭和29年に仮出所するのだが、
今のサンシャイン60に巣鴨の
拘置所及び刑務所があり
そこに収監されたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる