どうも村田です
シベリアから帰った後は、
宮崎県の都城の歩兵
第23連隊長を務め、
その後参謀本部の課長、
さらに旅団長、憲兵司令官、
参謀本部第一部長、
こういう要職を歴任したのだ。
参謀本部第一部長というのは、
作戦を担当する部で、参謀
本部ではトップが参謀総長
なのだが、
その次は参謀次長、その
下が参謀本部第一部長だから
言ってみれば参謀本部の
ナンバー3、
日本の参謀本部全体というか、
日本の作戦全体を指揮する
大変重要な立場になったわけ
なのだ
その後、陸軍大校長になった
のだ
彼は陸軍大学校の校長に
なったときに陸軍大学校に
赴任するわけだが、
そこで陸軍大学の現役の
学生に対して新しい校長
として赴任するわけだが、
赴任した先で校長訓話と
いうのをするのだ
つまり、陸軍大学校の学生が
座っていて、校長が入って
くると「起立」と言って
起立するのだ
けれど、そこで
荒木新陸軍大学校長は
登壇して、その席でもって
一言「不言実行」と言って
壇を降りるわけなのだ
訓示はそれだけだったわけで、
一瞬みんなびっくりするのだが、
「あれは永久に忘れられ
ない訓示であった」という
ことを、当時の陸大生が
後に話しているのだ
そういうわけで陸軍大学
校長をして、その後熊本の
第6師団長、教育総監部
本部長、
昭和6年には何と
犬飼内閣で陸軍大臣に
就任したのだ。
陸軍中将で陸軍大臣に就任し、
翌々年の昭和8年に陸軍大将
になったのだ
陸軍大将になった時に
本を書いたということで
この中身は昭和7年から
8年について書かれたもの
だと思うが、そういうわけで
彼は陸軍大臣になり、
陸軍大将として
『全日本国民に告ぐ』
と、この本を出版した
ということなのだ
当時は昭和の前期、
昭和の1桁だが、
統制派と皇道派という
陸軍の中に大きな2つの
派閥というか系統があって、
それがある意味では
しのぎを削っていた
わけなのだ
陸軍に関する研究
では戦後
「皇道派と統制派の戦い」
ということをよく
言われるのだが、
皇道派とか統制派
という言葉は、戦後に
できた言葉で、戦前は
そういう言葉を使って
いないのだ
使ってないが分かり
やすいから、皇道派
あるいは統制派という
言い方で説明していく
のだ
その皇道派、統制派
という2つの大きな
派閥ができていった
最大の原因は、
第一次世界大戦なのだ
第一次世界大戦で
日本はヨーロッパの
戦争を見たわけなのだ
第一次世界大戦は、
世界の戦争で歴史の
中でも画期的な戦争で
あり、
それは国民総動員による
戦争であったのだ
要するに国民国家と
国民国家の戦争で
あったということなのだ
それまでの戦争は、
武士団と武士団、
騎士団と騎士団、
軍隊と軍隊の戦争であり、
国民そのものはその埒外
(らちがい)にいたわけ
なのだ
例えば、ナポレオンは
一番最初に初めて徴兵制を
敷いて、それで一般庶民を
兵隊にして、
そしてドイツと戦い、
さらにロシアに攻め込んだ
わけだが、
そういう意味では
国民国家としての
初めての戦争をしたのは
ナポレオンだが、
しかしそのナポレオン
といえどもフランス国力を
挙げて戦争をしたわけでは
なく、
フランス国の軍隊として
戦争したわけなのだ
国民1人1人はその戦争
にはそんなにタッチして
ないのだ
ところが第一次世界大戦
というのは、国と国との戦い、
それぞれの工業力、産業力、
経済力、あるいはその国の
国民のレベル、士気、
そういったものが戦争
全体に大きな大きな影響を
及ぼす、
そして1人1人の国民が
戦争に巻き込まれる、
そういう戦争になった
わけなのだ
それが第一次世界大戦
なのだ
これを見た荒木さんも
ロシア軍の側から観戦武官
として見たわけだが、
陸軍も海軍も大きな大きな
ショック、衝撃を受けたのだ。
要するに、今までのように
「軍隊さえ強ければ
いいんだ」ということ
ではなくて、
国家の工業力であるとか、
あるいは経済力であるとか、
あるいは資金運営力、
さらには政治力、外交力、
すべてのもの、そして
国民1人1人の士気、
それからやる気というか
モチベーションというか、
そういうものが高くないと
戦争には勝てないのだ
ということがはっきり
したのが、第一次世界大戦
なのだ
これは世界の戦争の
歴史の中で画期的な
ことだったわけなのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる