どうも村田です
内務班では皆、
かかとのあるスリッパを
履くが、これは「営内靴」
と呼ぶのだ
それから、「差し繰る」
という言葉があるのだ
これは「かっぱらう」
ということなのだ
ものを盗んでくることを
差し繰ると言うのだ
軍隊ではいろいろなものが
支給されるが、これが
紛失されると大変なことに
なるのだ
天皇陛下から頂いている
ということになってるから、
その員数をそろえること、
数をそろえることを
「員数をそろえる」
と言うのだが、端的には
「員数をつける」と言う
のでだが、なくしたりすると
検査の時に大変なことになる
から、その場合には内務
班全体の連帯責任になるから、
ものがなくなったらよその
内務班や、ほかの兵隊から
盗んでくるようになるのだ
これを「員数をつける」
と言うのだ
例えば「営内靴が片方ない」
と言うと、
「隣の班から差し繰って
きて員数をつけろ」という
ふうに使うのだ
何メートル、何センチという
言い方もありこれも分からない
と思うのだが、軍隊では
武士の時代からの名残があり、
金の話をするのは卑しいと
されているから、ものの
値段のことをこのように
呼ぶのだ
例えば2円50銭という
ものの値段があれば、
それは2メートル50センチ
というふうに使うのだ
「今日のようかんは
30センチだった」
というふうに使うと
「30銭だった」という
意味なのだ
以上、陸軍の内部について
の話し、これまでのことは、
戦争戦略、戦術武器、
あるいは陸軍の有名な
将軍たちの人事や記録
ではなくて、一般には
ほとんど知られてない話
なのだ
こういう話をする人もいないし、
いろいろな人から聞いたり
本を読んだりしてたくさん
学んできたのだが、
これ以上こういうことを
語れる人はいないのだ
陸軍という組織が
どのようにしてつくられて
いって、どのような体裁を
取っていたのか、
どのような中身であったのか、
どのような教育をし、
どのような階級制度や
人事制度で人々が暮らして
きたのかということが
少しでも分かってもらえれば
幸いなのだ
今日からは荒木陸軍大将が
書かれた『全日本国民に告ぐ』
という本について解説を
したいと思うのだ
荒木貞夫さんという人は
どういう人なのかという
ことについて話たいと思うが
彼は明治10年、東京の
狛江の出身なもだ
彼の先祖は、お父さんか
おじいさんだが、
徳川幕府の御三卿と言われた
一橋家の家臣で、
そこの息子として明治10年に
生まれたのだ。
陸軍士官学校を明治30年、
9期生として卒業して、その
翌年の明治31年、
近衛歩兵第1連隊に少尉
として任官をしたのだ。
この近衛歩兵第1連隊
というのは、日本で
一番最初にできた連隊で、
最初は近衛歩兵第1、第2、
第3連隊、そして普通の
歩兵1連隊から14 連隊まで
できたのだが、そのときの
一番最初の連隊なのだ
かつ近衛のトップの
統合連隊というのだが、
頭が一番であるという
ことなのだ
その頭文字が一番である
第1連隊で任官したという
ことは、非常に家柄も
悪くはないし、
性格も、さらには顔出ちも、
そして成績も良かった
ということになるのだ
その後、陸軍大学校に
入校して、入校している
最中に日露戦争が始まったから、
陸軍大学校をいったん休学
するという形で、
籍は陸軍大学にあるのだが、
原隊である近衛歩兵第1連隊
の中隊長、続いて
近衛歩兵第1旅団の旅団
副官として日露戦争に
従軍をしたのだ。
約1年間従軍していたから、
戦争が終わって復学をして
英陸軍大学校第19期生として
卒業したのだ。
19期生として卒業したのだが、
成績は33人中トップで
首席卒業ということなのだ
首席で卒業して直ちに
参謀本部のロシア班に
配属になり、
明治42年には少佐になって、
ロシア大使館武官補佐官に
なったのだ。
当時海外の大きな大使館には、
武官というのは陸軍武官、
海軍武官がいるのだが、
ロシアは陸軍武官というのは
大体少将か大佐がやっていた
のだ。
この時は武官の補佐として、
武官補佐官に彼は少佐として
赴任したということなのだ
帰国後は参謀本部員、
さらには陸軍大学校の教官、
さらに第一次世界大戦が
始まると、彼はロシア軍に
従軍する形で観戦武官と
なったのだ
観戦武官というのは、まず
実際に戦争が起こった場合に、
片方と片方、AとBが戦争すると、
そのどちら側でもない
中立の国の軍隊の武官、
軍人がどちらかの側について、
実際に戦争するわけではなく、
その戦争の様子を実際に見て、
そして研究する、あるいは
本国に報告するというために、
観戦武官という制度があるのだ
日露戦争の時には日本と
ロシアが戦ったが、
アメリカは中立なのだが、
そのアメリカのマッカーサー
という大佐が来て、日本側に
ついて観戦武官となった
という記録があるのだ
そのマッカーサーの息子が
GHQのダグラス・マッカーサー
なのだ
そういうことで、彼は
ロシア軍側について
第一世界大戦に従軍して
観戦武官を務めたのだ。
第一次世界大戦の最中に
ロシアは革命が起こって、
ロマノフ王朝が崩壊し、
レーニンのいわゆる共産党の
政権ができたわけだが、
そういう状況も彼はつぶさに
見てきたということなのだ
第一次世界大戦が終わった後は、
日本はシベリア出兵をするのだ
そのシベリア出兵で彼は
ロシア通であるということ
もあって、日本軍の
シベリア出兵の
ウラジオストク派遣軍の
参謀としてシベリア東部に
駐屯をしたのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる