どうも村田です
幼年学校生徒も銃を
持って戦うことが
あったのかもしれないのだ
幼年学校に行かなかった
者には、士官学校を受験
する道があったのだ
中学4年の修了、あるいは
中学5年卒業で士官学校に
進むことになるのだ
この場合は、士官学校に
入校と同時に原隊と
呼ばれる所属部隊が決められ、
そこで隊付勤務を1年あまり
やって、軍曹の階級章を
もらって士官学校に進み、
中央幼年学校から来た者と
合流し、同期生となったのだ
しかし、この制度は
幼年学校出身者が幼年学校3年、
中央幼年学校本科2年の
教育で士官学校に入校する
のに対し、
中学出身者は隊付1年あまり
で士官学校に入るから、
教育に差が出たのだ。
こうしたことを是正する
意味もあって、大正9年に
制度の改変更が行なわれたのだ
大正9年というのは、
日本全体にとって大変な
教育制度の変更があった年で
それまでは、学校は
全部9月始業、6月終業
だったのだ
日本の学校は小学校でも
みんなそうで
7月8月は学年代わりの
休業、すなわち夏休み
だったのだ
それが現在と同じように
4月始業、3月終業に
変わったのだ
これに合わせて幼年学校も
4月入校、3月卒業と
なったのだ
それまでは幼年学校も
9月入校、6月卒業
だったのだ
士官学校は5月卒業
なのだ
中央幼年学校は廃止され、
陸軍士官学校予科と
名前を変えたのだ。
それまでの幼年学校の
名称も地方を取りまして、
例えば仙台は仙台陸軍
地方幼年学校だった
ものが、
仙台陸軍幼年学校に
なったのだ
東京は陸軍中央幼年
学校予科と言っていた
ものを、東京陸軍幼年
学校というふうに名前も
変わったのだ
幼年学校出身者と
中学出身者は、中学卒業、
修了と同時に士官学校の
予科に入り、
幼年学校出身者と合流
して2年間の予科教育を
受け、その後隊付勤務を
して士官学校の本科に
進むようになったのだ
ここで少し考えてみよう。
例えば2人の中学校の
同級生がいるとし
中学1年から幼年学校を
受験して、両方とも落ちた
とすると
中学2年から受験して、
A君は合格して、B君は
落ちたとするのだ
しかし、B君は中学4年
から士官学校を受験して
合格したとすると
士官学校ではB君が
1年先輩になるのだ
こうしたことはよく
あったのだ
A君は合格して幼年学校に
入って士官学校に進むのだが、
B君は落ちたにもかかわらず、
士官学校に1年早く入れた
ために、A君の先輩になって
しまうわけなのだ
こういう制度が良かったか、
ということについていろいろ
と疑問があり、
この制度については戦後議論
されたけれど、戦後議論を
しても始まらなくて、
軍隊そのものがなくなって
しまったのだ
さて、幼年学校生徒と
士官学校生徒の身分、
階級について話をしたい
と思うのだ
幼年学校に入校すると
幼年学校記章が襟に付く
のだ
幼年学校記章の身分がある
ということは、将校生徒
ということを意味してるのだ
将校生徒というのは、
階級ではないのだが、
身分なのだ
どういう身分かというと、
上等兵の上、伍長の下
という身分なのだ
だから、昭和13年以降の
兵長ができる前は
分かりやすかったと思うが、
兵長ができてからは
いろいろとゴチャゴチャ
してきたのだ。
任官していないので、
判任官の下という意味
なのだが、
従って上等兵以下、要するに
一般の兵隊さんで上等兵以下
の人たちは、
例えば13歳の幼年学校生徒を
見ると、これは上等兵の
上なので上官に当たるのだ
従って敬礼しなくては
いけないのだ
知り合いで13歳で幼年学校
に入った人が、たまたま
休みの日に外へ外出した時に、
兵隊さんが5~6人いて、
「上官に敬礼」と言われ、
見たら自分のことだった
といって慌てて答礼した
という話を聞いたことが
あるのだ
当時は戦争中の話だが、
30歳ぐらいの上等兵や
一等兵や二等兵がいて、
そういう人たちが13歳の
坊やに向かって敬礼を
したわけなのだ
現実にはそういうことが
あったのだが、これは
上等兵の上、伍長の下
という身分が
中央幼年学校本科生徒、
あるいは士官学校の予科生徒、
予科士官学校生徒も同じなのだ
ちなみに、士官学校の予科
生徒や、予科士官学校生徒
というのは、襟章が付いて
いて、階級章が付くのだ
しかし、この階級章は赤短、
要するに星の1つもない
赤短で、通常三等兵の階級章
と言うのだが、
そのような階級章はないのだが、
二等兵の下の階級章なのだ
しかし、階級章の横に山が
付いているので、それによって
「これは将校生徒である」
ということが分かるのだ
それから、横に座金が付くが、
座金については後で説明
するのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる