どうも村田です
一番若い者は、17歳の
伍長がいたのだが、
14歳に入校を繰り下げた
こともあり、
最も若い者は実は16歳の
伍長が出たのだ。
16歳で一式陸戦、いわゆる
「ハヤブサ」と呼ばれる
戦闘機に乗っていた人が
いるのだ
さて、それでは将校は
どのようにして養成されて
いったのか。
明治初年の草創期には
戊辰戦争に参加した武士で、
陸軍に入った者を年齢や
経歴、戦歴などから
少尉から大将まで
任命したのだ。
明治5年から6年まで、
元帥が存在したのだ。
西郷隆盛が任命されたが、
すぐに元帥というものは
廃止になり、階級として
の元帥はなくなったのだ
大将が最上位になり
この時、西郷隆盛1人が
大将として任命されたのだ。
陸軍大将なのだ
中将もたった1人で
これは山縣有朋なのだ
将校養成のために正規の
教育が必要であるという
ことから、陸軍士官学校を
設立することになったのだ
明治8年、士官制度の
第1期生が入校したのだ。
ちなみに、陸軍幼年学校、
士官学校、陸軍大学校、
あるいは歩兵学校などの
各種兵科学校、
軍医学校、経理学校、
各少年兵学校、これは
すべて「入校」と言うのだ
「入学」とは言わないのだ
これは海軍兵学校、
あるいは海軍の各種学校、
現代の防衛大学校、
防衛医科大学校、陸上
自衛隊の高等工科学校、
みんな同じで
入校と言い、入学という
言葉は使わないのだ
士官生徒隊と言ったが、
現在よく知られている
「陸士何期」という言い方
があるのだ
例えば、東條英機は
陸士17期であるとか、
栗林忠道は陸士26期で
あるとか、
石原莞爾(かんじ)
は21期であるとか、
そういう言い方をするのだが、
この何期という言い方は
士官候補生隊の期の言い方
なのだ
士官候補生隊というのは、
士官候補生隊ができる前の
陸軍士官学校で
陸軍士官学校の士官
候補生隊は1期から
11期まであるのだ
だから、その後の
士官候補生隊の1期からと
区別するために、旧1期、
旧2期というような
言い方をするのだ
士官候補生隊は1期生から
終戦時の在校生である61期
まであったのだ
さて、明治4年に陸軍将校
を養成するために
陸軍兵学寮が設けられたのだ。
明治5年には幼年学校が
併設されたのだ。
明治8年に兵学寮が
士官学校となり、
士官候補生隊の1期生が
入校したのだ。
すなわち、旧1期が
同年2月に入校したのだ。
そして、明治10年8月に
卒業し、少尉試補、
「試み」に「補ける」
と書くのだが、
少尉試補となって、
半年を過ぎてから少尉に
任官したのだ。
少尉試補というのは後の
見習士官に相当するもの
なのだ
今の自衛隊で言うと
幹部候補生で
場所は現在防衛省のある
市ヶ谷なのだ
期間は2年半で
その後、通常の学校教育
ともリンクした教育
システムが求められる
ようになり、
明治20年、士官候補生隊が
発足するのだ
そして、士官生徒隊は
11期で終わり、明治22年、
士官候補生隊に1期生が
入校し、
1年半の教育の後、
少尉に任官したのだ。
幼年学校については、
明治29年に新しい制度になり、
中央幼年学校と東京、仙台、
名古屋、大阪、広島、熊本、
これは鎮台が置かれた所と
同じだが、この6つに
幼年学校を設置したのだ。
東京については中央幼年
学校予科と称し、ほかは
地方幼年学校と称したのだ。
だから、東京幼年学校とは
言わずに、陸軍中央幼年学校
予科と言ったわけなのだ
ほかの所は、例えば
仙台なら仙台地方陸軍
幼年学校というふうに
言ったのだ
各幼年学校の定員は、
わずか50人なのだ
合計6校で300人、合同で
選抜試験をやって、その
6つにそれぞれの出身地に
応じて振り分けをしたのだ。
明治30年9月に新制度の
幼年学校の1期生が入校し、
以降大東亜戦争終了時の
1年生、49 期生までが
続くのだ
幼年学校は中学1年修了か、
2年修了で受験することが
できたのだ。
従って1年修了者と
2年修了者では1歳の
年の差があるのだ
ここでの教育は中学校と
基本的には同じで、プラス
して軍事教練、それから
兵器や戦史などを学んだのだ
幼年学校は極めてレベルの
高い教育制度で教育が
行なわれたために、
幼年学校出身者の中には
「士官学校時代は厳しくて、
あんなものは2度と経験
したくないけども、
幼年学校ならもう1回
やってもいい」
と言う人が多かったと
言われているのだ
幼年学校は士官学校とは
違い、有料で授業料は
決して安くなかったのが、
例えば戦死者の息子、
遺児、
あるいは家庭の貧しい者
には授業料が免除される
という措置があったのだ
しかし、昭和20年、
本土決戦が叫ばれる
ようになると、
幼年学校生徒も動員の
対象となることが
予想されたため、
授業料はなくなったのだ
授業料を払っている
ということは、自分の
意志で入校している
ということになるのだが
これが無料になった
ことで国家の意思で
入校しているという
ことになり、
授業料が無償になると
退校の自由がなくなって
動員の対象となることに
なったのだ
だから、もし本土決戦が
あれば、幼年学校生も
当時13歳から17歳だが、
幼年学校生徒も銃を持って
戦うことがあったのかも
しれないのだ
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる