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戦うことになるんじゃ

どうも村田です

御親兵は明治5年に

近衛兵と名前を変えて、

引き続き主に薩摩、長州、

土佐の士族から構成され、

一方徴兵された庶民は

鎮台に配属されたのだ。

明治21年、鎮台は師団と

改称され、東京鎮台は

第1師団、仙台鎮台は

第2師団、名古屋鎮台は

第3師団、大阪鎮台は

第4師団、広島鎮台は

第5師団、熊本鎮台は

第6師団となり、

同じ明治24年に御親兵、

近衛兵から名前を変えた

近衛師団となって、

計7個師団体制となったのだ

この7個師団体制で

日清戦争を戦ったのだ。

一方、太政官は明治7年、

開拓と警備を兼ねた

屯田兵を北海道に設ける

屯田兵の多くは廃藩置県に

よって禄を離れた士族たちで、

西南戦争や日清戦争にも

従軍しているのだ

明治29年、この一部を

改称して、これを母体

として旭川に第7師団を

設置したのだ。

次に、陸軍の編制に

ついて話をしていきたい

のだ

歩兵部隊について

見てみるのだ。

歩兵連隊なのだ

話は戻るが、明治7年、

近衛歩兵第1、第2連隊が

できたのだ。

これは近衛兵の中の

近衛兵を、この第1連隊と

第2連隊で構成したのだ

これが日本で最初の

歩兵連隊なのだ

それと同時に、東京に

歩兵第1連隊、および

歩兵第3連隊、佐倉に

歩兵第2連隊、

この第2連隊は後に

水戸に移るのだ

それから、仙台に第4連隊、

青森に第5連隊、名古屋に

第6連隊、神奈川に第7連隊、

第7連隊は最初は名古屋に

間借りをしていたのだ。

大阪に第8連隊、大津に

第9連隊、第9連隊は

後に京都に移り

それから、岡山に第10連隊、

広島に第11連隊、丸亀に

第12連隊、熊本に第13連隊、

小倉に第14 連隊の連隊を

置いたのだ。

そして、東京鎮台は第1、

第2、第3連隊の3個連隊、

仙台鎮台は第4、第5の

2個連隊、

名古屋鎮台は第6、第7の

2個連隊、

大阪鎮台は第8、第9、

第10 の3個連隊、

広島鎮台は第11、第12の

2個連隊、

熊本鎮台は第13、第14の

2個連隊で編制したのだ。

以上、近衛の2個連隊、

6鎮台の14個連隊、これが

西南戦争時の日本陸軍の

陣容なのだ

近衛兵を除き、それぞれの

地方ごとに部隊を編制

していたことが分かるのだ

日本の連隊、部隊も

そうだが、基本的には

郷土部隊なのだ

宮城県出身者が仙台の

第4連隊に入り、

第2師団の一員として

戦うのだ

郷土部隊とした理由は

いくつかあるが、まずは

言葉の問題なのだ

現代のようにテレビや

ラジオがあるわけではなく、

明治維新から時間も経って

ないから、

学校教育で標準語を学んでも

そう簡単に話すことは

できないのだ

方言があるから、お互いに

通じないのだ

現代でも鹿児島弁と

津軽弁が通じないと

思うけれど、

なかなか理解が難しいと

思うのだ

陸軍は基本的には

長州弁を基本言語とし、

「自分は何々であります」

という言い方は長州弁

なのだが、これを基本的な

言語として統一を図ったのだ

しかし、固有名詞などは

全然単語が異なるから、

大尉以下の下級士官や下士官、

あるいはもちろん地元の

出身者の兵もそうだが、

それによって部隊を編制して、

地元出身者、あるいは

その近郊で部隊を編制して、

言葉による意思疎通の

問題をクリアしたのだ

士官学校を卒業しても、

大体ほとんどの者が

出身地か、それに近い

連隊に配属されていく

ことになったのだ

第2の理由は、旧藩意識の

まだ強い明治時代にあって、

郷土部隊とすることで

連隊ごとの競争心が生まれ、

精強さを増すと考えられた

わけなのだ

そして第3は、明治維新で

敵味方に分かれた藩を

なるべく同じ部隊に

しないということなのだ

近衛兵の2個連隊、

6個鎮台の14個連隊の

陣容は固まったのだが、

この陣容では国内戦は

ともかく、外国と戦争と

なった場合、

日本の安全保障が難しい

と判断され、明治17年

から19年にかけて連隊を

増設するのだ

少し煩瑣(はんさ)だが、

まず近衛の歩兵第3連隊、

第4連隊を新たにつくり

近衛の第1、第2に対して、

さらに第3、第4連隊を

つくったわけなのだ

これで近衛師団を4個連隊

編制としたのだ。

さらに、群馬県高崎に1

5連隊を創設して、第1師団

に組み込んで、

第1師団は第1、第2、第3、

第15の4個連隊編制としたのだ。

新潟の新発田に第16連隊、

秋田に第17連隊を創設して、

第2師団に組み込み、

仙台の第2師団は第4、第5、

第16、第17の4個連隊編制

としたのだ。

愛知県豊橋に第18連隊、

福井県の敦賀に第19連隊を

創設して、

名古屋の第3師団に組み込み、

第3師団は第6、第7、第18、

第19の4個連隊編制としたのだ。

京都の福知山に第20連隊、

これを第4師団に組み込み、

第4師団は第8、第9、第10、

第20の4個連隊編制となり

さらに島根県の浜田に

第21連隊、四国の愛媛県

松山に第22連隊を置いて

広島の第5師団に組み込み、

第5師団は第11、第12、

第21、第22の4個連隊

編制としたのだ。

宮崎県の都城に第23連隊、

福岡に第24連隊を置き、

熊本の第6師団は、第13、

第14、第23、第24 の

4個連隊編制としたのだ。

こうして帝国陸軍は

明治19 年には近衛師団を

含めて7個師団、28個

連隊体制となって、

この体制で日清戦争を

戦うことになるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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