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原因になっとんじゃ

どうも村田です

バカバカしい議論で

論争疲れをしてしまう

のだ

そのうちだんだん両方に

問題があることが分かって

くる人が増えてきている

けれど

長い間マルクス主義批判

に疲れてしまって、

東京裁判史観まで話が

いかないという、

日本の場合はそういう

傾向があるのだ

多少話題にした

文藝春秋問題というものが

それを物語っているのだ

文藝春秋問題というのは、

文藝春秋の人事問題をめぐる

内紛があって、

それがバカバカしいことに

由来しているわけなのだ

あの雑誌が持っている

オピニオン誌としての

自覚の欠如が部数の減退を

招いて、

それが内紛に発展したのだ

と推断し、非常に激しく

雑誌で書いたしていたのだ

その理由としては

文藝春秋が本当だったら

マルクス主義批判が終わった

のだから次は東京裁判史観、

すなわちあの戦争をリアルに

問い直し、日本が理由のない

罪の意識に閉ざされる

というようなことがないように、

そこがまだまだダメだから

そこを追及していくのが

言論人として、

まずやるべき課題だ

ということを渡部昇一

なんかが盛んに言っているのだ

文藝春秋は確かにマルクス

主義批判にはそれなりに功績が

あったのだ

金持ちばかりが得をしている

世の中ということは愚論だと

いうようなことを議論、

道徳的議論で世界の複雑な

現象は説明できないという

ようなことは文藝春秋も

それなりに貢献したのだ

しかし、そこから一歩進んだ

あの戦争の部分にいくことは

どうしてもやらなかったのだ

それをやってきたのは

『諸君!』という雑誌だった

けれど、その『諸君!』を

廃刊してしまったのだ

それはあの戦争の評価、

価値観に関して言論出版社

としての文藝春秋は責任を

負わない、

追及の一端を担うということも

やらないという逃げがあったのだ

逃げの姿勢がはびこって

それを見抜いたために雑誌は

非常に薄っぺらなふわふわした

中性的などちらともつかず、

何にも味方をしていない

ような感じなのだ

そして、健康雑誌だとか、

健康記事だとか、おじいさん、

おばあさん向けの話か、

あるいはスキャンダル好きの

週刊誌的な記事など、そういう

発想でせいぜい論じると、

体の病気をどうやって治したら

いいかなというような健康記事、

そういう雑誌に成り下がって

しまったのだ

その理由は課題のマルクス

主義批判が終わっても

東京裁判史観や先ほどから

何度も言っている

北ベトナムと南ベトナムの

問題なら問題をしかと説いて、

歴史の認識のようなものを

正していくことが必要だという、

昔雑誌『諸君!』がやっていた

ような言論界の課題が至る

ところにあるのだ

まだまだそういう課題がある

のに、それを怠って、

そのために部数が減ったのに、

部数が減ったのはほかに

原因があると思い込んで

内紛が起こったのだ

その内紛の結果、会社が

2チームに分かれてしまって、

とんでもない、みっともない

雑誌に成り下がっているのは

今の文藝春秋なのだ

またさらに部数が減る

と思うのだ

そういう認識で対談したり、

議論を書いたりしているのだ

事ほどさように今言った

ような問題は非常に

中心的な微妙な問題に

絡まってくるにも関わらず、

日本の言論思想は大概それを

引き受けようとしないで

きているのだ

もう少し別の言葉で言うと、

いわゆる戦後の保守は

反共親米だったのだ

マルクス主義的変更には

抵抗するのだ

しかし、アメリカは

正しい国なので

アメリカ流の民主主義と

自由は無疑問に善人にするのだ

だからアメリカの戦争観に

疑問を差し挟む余地などない

と思い込まされて、

南部仏印進駐は日本の暴走で

あったという簡単な議論を

受け入れてしまって、

戦勝国の戦争観に追随して

いるのだ

ところがソ連の消滅とともに

反共はほとんど意味を

なさなくなったのだ

反共というのはもう

終わってしまったのだ

共産主義は間違っている

という話はもう終わって

しまったのだ

そして、親米の方も一筋縄

ではいかなくて、いろいろな

形が出てきているのだ

アメリカが正しいという

こともだんだん人は

信じなくなってきている

のだ

それはそうで

もうそんなことは

言われなくても

「アメリカの戦争観が正しい」

なんて今、言ったら笑われる

のだ

それにもかかわらず、

マルクス主義に由来する

それを正しいとする脅迫は

弱まってきたのだ

代わりに歴史の負い目、

一番最初に申しあげたように

日本の戦争は反省し、

謝罪すべき対象であると

思い込んでいる

1つの固定観念があり

それはむしろ本当に克服

されたのではなくて、

次第に固定化してきている

のだ

「日本兵は残虐非道だった」

というような何でもいい

ようなことをことさらに言う、

いわゆる自虐的な歴史観が

本当は反省されなくては

ならないのに、代わりに

そういう歴史観を着観

めかした歴史の資料で

かえって難しく、

武装する資料で改めて強調

するようなものがはびこって

きたのだ。

そして、日本の歴史の誤りや

無責任や愚かさだけを私利に

追及する方向のゆがみや変更が

かえって根強く立ち現れる

ようになってきているのだ

半籐一利の『昭和史』や

加藤陽子の『それでも、

日本人は「戦争」を選んだ』

というようなベストセラーに

象徴されるのだ

戦争には目的、相手国の

戦意を見ずに日本国内の

政治や社会の間違いばかりに

目を向けて、

それを反省すれば何か自分が

美しくなるように思い込む

愚かなバランスを欠いた

自己認識というものが

あったのだ

それは世界史における

わが国の主張の正当さを

見失わせる原因の1つに

なっているというふうに

思うわけなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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