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するわけなんじゃ

どうも村田です

アメリカ産の朝鮮ニンジンを

清国に運んだということが

米中直接貿易の始まりだった

のだ

くしくも今米中経済戦争、

貿易戦争が起こっているけれど、

その歴史の劈頭(へきとう)

を飾ったのは

1774年の朝鮮ニンジンの運搬

だったのだ

1853年日本にペリーがやって

来たとき、この中国貿易の

半分はアメリカ人の手に

握られていて、イギリスは

及ばなかったのだ

ヨーロッパ各国の船がアジアへ

来るには、承知の通りまずは

大西洋を南下して、

アフリカ先端の喜望峰をグルッと

回ってインド洋を越えてやって

来るのが通常のルートなのだ

だから、アメリカも同じ

ルートをたどらざるを得なかった

のだ

太平洋航路というのは

なかったのだ

ペリーが日本にやって来た

あの時でさえ、太平洋を越えて

来たのではないのだ

みんな知らなくて、

「あれは太平洋航路でやって

来たのだろう」と思っている

と思うが、とんでもないのだ

今言った喜望峰巡りの

遠洋航海だったのだ

そして何と驚くべきことに、

ニューヨークからの方が

ロンドンからよりも、広東

までの距離が近かったという

ことがあるのだ

もちろんこれを見ただけ

ではすぐには分からない

けれど、ニューヨークから

アフリカ南端を回って

広東に行くのとロンドンから

回っていくのとでは、

アフリカはヨーロッパの

近くだから、

常識的にはロンドンの方が

近いと多分われわれは思うのだ

ところがニューヨークの方が

近かったのだ

これは案外知られていない

ことなのだ

試しに誰かに聞いてみるといい、

こういうことは誰も知らないのだ

だから、わずかな差でも

アメリカの貿易の方が有利

だったのだ

当時はまだ蒸気船がないから、

クリッパー・バウという

先のとがった帆掛け船なのだ

写真で見たことがあると思うが、

勝海舟が渡った咸臨丸など、

みんなああいう船なのだ

先がとがっていて、マストが

あって旗を立てている船

なのだ

ところが、1850年頃に

イギリスに蒸気船ができるのだ

さすが蒸気船はすごくて、

とても帆船では太刀打ち

できないのだ

アメリカは焦り、かくして

英米対決の貿易戦争が

始まったのだ

実はこういう話なのだ

この話もほとんどみんな

知らないだろう

それには先立つ因縁が日本を

巡ってでもあるのだ

今話した、ペリーがやって来た

時に喜望峰から帆船で来た

というのは1850年と言ったが

蒸気船がその頃できるのだが、

まだスエズ運河は開通して

いないのだ

スエズ運河が開通するのは

64年の明治維新の頃だから、

まだアフリカの南端を回って

くる方なのだ

スエズ運河がないから、

グルッと回ってくるから大変

なのだ

それで競争していたわけだが、

そうなるとアメリカは不利に

なるのだ

ペリーが日本にやって来た

のは1853年なのだ

1853年浦賀にやって来る話を

歴史の勉強で習ったと思うのだ

その前、つまり1830年代に

アメリカは小笠原諸島に

移住者を送り込んでいたのだ。

この話は意外と知られていない

のか知っているのか分からないが、

今でも白人の子孫が小笠原に

いるのだ

そして話題にもなっていて、

時々テレビに出たことも

あるのだ

ペリーが浦賀に立ち寄って

くる前に小笠原に立ち寄り、

牛を4頭と羊を5匹島に

放って、

野菜や穀類の種を先に

住んでいたアメリカ人に

手渡しているのだ

つまり、ペリーは小笠原諸島が

中継地として役立つのではないか

と思ったのだ

そのときの中継地というのは

日本とアメリカの中継地では

なくて、

中国大陸とアメリカが貿易を

展開するうえで役に立つ

中継地が小笠原ということを

念頭に置いて、いろいろ考え

たわけなのだ

それで、牛や羊を置いて

いったのだ

ペリーはアフリカを通らないで

サンフランシスコを起点にして、

ハワイ、小笠原、琉球、上海

という太平洋航路を作るべきだ

ということをアメリカの

海軍省に手紙で訴えている

のだ。

その流れは大体分かるが

サンフランシスコ、ハワイ、

小笠原、琉球、上海

そのために、沖縄を攻略する

というはっきりとした軍略

目的を持っていたのだ。

つまり、太平洋を横切って

中国大陸に向かう大きな

太平洋航路が必要だ

ということをペリーは

しきりに訴えたのだが、

日本に最初にやって来た時は

まだアフリカの南を回って

いたのだ

ところが、ここでも

イギリスが先手を打って

いたのだ

小笠原は1827年に

イギリス人のフレデリック

・ビーチー海軍将校という

人によって占領済みである

ということに基づいて

イギリスの財務省が

アメリカ政府に抗議

しているのだ

日本の全く知らない時に

小笠原を巡って英米間で

やりとりがあったわけなのだ

もとよりこれはおかしいのだ

なぜならば、この島は

1675年に小笠原貞頼が発見し、

幕府に届け出て日本の領土と

いうふうになっているから

なのだ

だけれども幕府はうかつで、

出掛けていかないから

分からないわけなのだ

そこでペリーは目的を変え、

中国への中継地である前に

日本との条約締結を目的と

するということを言って、

1854年の2回目の日本訪問で

開港を談判するわけなのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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