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これはすごいんじゃ

どうも村田です

「西洋各国のアジア支配に

対しては、どの国にも必ず

クーンのような人物が

歴史の実行家として登場する」

「イギリスからも、後に

ラッフルという人物が

出てくるように例外はない。

クーンは『分割して統治せよ』

の植民地支配の鉄則に忠実で、

ジャワの海峡王国の力を

そぐのに、

王室内のお家騒動を散々

利用するなど、武力よりも

術策と狡猾によって勝利を

収めることにも

決してぬかりのない男だった」

分かるのだ

例えば、ある国の王が

「ジャワの主権者は自分で

あるから、オランダ使節を

派遣するよ」とクーンに言うと、

「自分は王の下僕たるように

命令されることは嫌だ」と

言って、服従しないことを示し、

その王に対して、直ちに軍を

使って夜襲をかけたというのだが、

それは無茶な話なのだ

何も悪いことは言ってないのだ

けど、そんなことのために

けがをして、翌年最後の

襲撃でクーンは死んでしまうのだ

これは1629年の話で

それだけの話だが、実は

ここから先があるのだ

「クーンの一連の政策は

イギリスの深刻な怒りを買った。

アンボイナで多くの原住民が

虐殺されても抗議しなかったのに、

10人のイギリス人殺害に憤慨し、

そのために英蘭戦争が起こった

のかとさえ思えるほどである」。

要するに、植民地支配者の

イギリスとオランダが、お互い

にそうやって憎しみ合っていたと

いうことなのだ

「オランダは1654年に賠償

金6,000 ギルダーを支払ったが、

完全な了解には至らなかった。

アンボイナの和解は2度目の

英蘭戦争の後に締結された、

1667年のブレダの和約が

成立後と言われている」。

「イギリスはそれほどにも

執拗に報復した案件であったが、

日本人が20人も殺されたのに

徳川政府は抗議一つせず

沈黙したままだった。

オランダからは土人の死と

見做されて(みなされて)

いたに相違ない。

このことは、日本の国内にある

感情の高まりを引き起こしていた

と想定される事件が、続いて

台湾で起こったのである」。

「オランダがポルトガルと

スペインと争って台湾を占領し、

二つの城塞(じょうさい)を

築いたのは1622年、

アンボイナ事件の前の年である。

しかし日本はこれより先に、

台湾中南部で中継貿易を

営んでいた。オランダが

勝手に新たに入り込んできて、

輸出入品の1割もの高関税を

課したので、日本人は毅然

(きぜん)として反対して

承服しなかった。

日本人に台湾統治の意思は

なく、自由貿易だけを

求めていたと考えられる」。

台湾を統治してしまえば

いいのに、これまた統治

しようとしなかったのだ

この段階で統治してしまえば、

当時は日本のものになっていた

のだ

「オランダは日本の勢力を

恐れ、日本人にだけは関税を

免除したが、関税を除く諸税は

納めなければならないと命じた。

後から乗り込んできた

オランダ人に納税を命令される

理由は全くないと考えた日本人は、

『オランダの主権を認めない』

という返事を貫いた」。

そういうことに対しては毅然

(きぜん)としているのに、

自分の国の国民を守るような

ことはしませんでした。

「それにも関わらず、1625年

台湾に入った日本商船は税として

金を没収され、船主は長崎奉

行に訴えた」。

例によって自分の国に戻って

行政に訴えるのです。

そうすると何とかしてくれる、

というくらい日本は強かったのだ

力を持っていたから

そういうことができたのだ

「幕府は

『注して朱印船に課税される

ことは許されない』と訴状を

送ったが効果はなかった」。

相手にされなかったのだ

せっかく断固とした措置を取り、

オランダに通報したのだが、

オランダは聞く耳を持たなかった

のだ

そこで、長崎の代官に

末次平蔵という人物がいた。

そういう人物は歴史書には

登場してこないのだ

面白いかが書いているが

全然出てこないのだ

歴史というのはこういう

ところが面白いのだ

「長崎の代官に末次平蔵という

人物がいて、支那大陸に絹や

物質を送る船を中継地台湾に

出したが、

オランダがこれにも関税を要求。

日本とオランダの対立はここに

決定的なものとなった。

1626年、かのクーンが登場し、

特使を日本に派遣してきた。

特使の名はピーターノイツという。

平戸を経て江戸に入り、

将軍幕閣に接し日本船の渡航禁止

を陳情したが、

末次平蔵の強硬な反対意見

などもあり、幕府の意は決せず

ノイツは虚しく帰国した」。

幕府は実態を知らず、

よく分かっていなかったのだ

それで末次がはっきりしている

人だから強く言い、それでやっと

外交が成り立っているような感じ

なのだ

どんなことを言っても、

このような案件は最初から

折れないでいいのだ

「ところが、ここから行政は

急変するのである。翌1627年、

末次の船が台湾に入港すると、

ノイツはこれを港に抑留した。

前年の失敗に対する報復と思われる。

1628 年船長の一人が脱出して帰国し」、

これは日本人で

日本人が脱出して日本に

帰国したということなのだ

「事の次第を末次に語ると、

剛毅(ごうき)な彼は大いに

怒り復讐の計画を進めた。

日ごろから目をかけていた

浜田弥兵衛という長崎の町人」。

これはやくざだろう

「勇気と自重心のある男に相談

するや、常々幕府の軟弱な態度に

不満を抱いていた浜田は兵を

大阪で募集」。

要するに鎖国だと言っている

のはそういうことだったのだ

鎖国などなかなかしないはず

これは鎖国して鎖国令が

まだ出る前なのだ

「大砲数門、小銃200丁を準備」

これはすごいのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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