どうも村田です
太平洋もインド洋も
横切らずにアメリカへ
行くこれは競争なのだ
イギリスから北西に進み、
アラスカの北から
ベーリング海峡を抜け、
カムチャッカ半島より
日本の方へ出てくる
という北西航路、
Northwest Passage
(ノースウエスト・
パッセージ)は
一躍有名になったのだ
航路で正式に成功が記録
されたのは、1508年だから
非常に早いのだ
コロンブスよりも少し後だが、
これは1508年のことだから、
場合によってはコロンブス
よりも早い成功があった
のではないかとも言われて
るのだ
当時の日本人には太平洋の
恐ろしさというものが
見えないわけだから、
日本列島から見て東側を
予想しているのだ
しかし、到底彼らは近づかず、
日本人も動き出さないのだ
しかし、当時の日本人も
南の海のヨーロッパ人の
動きは見ていたし、知っていた
のだ
南の島々には日本人が果敢に
進出していたのだ。
台湾をはじめ、もっと
ずっと南には山田長政など
いろいろな人が出ていくのだ
しかし、列島から見て東側の
太平洋は全くの闇だったのだ
何度も言うがヨーロッパ人
からの間接情報もなかった
わけなのだ
このことが、我が国の
近代史の孤独に深く関係した
ことは間違いないのだ
日本列島は長い間、人影も
船影も島影も見えない、
何日かかっても陸地に
辿り着けそうもない、
北太平洋という無の深淵
(しんえん)に繋がる
絶壁上に横たわっていたのだ
日本列島はこの深淵
(しんえん)に横たわって
おり、海と言っても、
日本列島の東は全くの
断崖絶壁だったのだ
その後、その辺りで
いろいろな出来事が
あったのだ
1603年に徳川幕府が開かれ
支倉常長が1613年から1620年
にヨーロッパを探訪するのだ
日本人の評判はいろいろあり
「日本人は信義を重んじ、
相手の虚言に気が付けば
直ちに取引を中止し立ち去る。
他国に留まることを好まず、
植民地を作らないし、持たない。
極めて言葉少なく、本国の
事情を多く語らない。
彼らは勇敢で、マラッカでは
畏敬、尊敬されている」。
「マレー人はずる賢くて信義、
真実乏しいが、日本人は
高貴の種族にして善良なる
風習を持っている」と。
そういう日本人の評判
というのは昔からあり
本当に立派なのだ
日本とイギリスは海戦を
交えたこともあるのだ
それからマニラでは日本人街が
襲撃され、大紛争を起こした
こともあるのだ
そういうとき、徳川幕府は
自国民保護の明確な
国家意識を示さないのだ
例によって、日本らしい
軟弱外交なのだ
そして、幕府はフィリピン
政庁に宛てて、
「近年その国に至る日本人、
悪逆をなす輩は呂宋(ルソン)
の法度のごとく成敗さるべきなり」
という手紙を送ったのだ
ひどいのだ
海外にいた日本人は、忿懣
(ふんまん)やるかたない
思いだったと言われて
いるのだ
そのころの幕府は、まだ
統一見解をとっていなかった
のだが、間もなく国家方針が
決まるわけなのだ
アンボイナ事件という
有名な事件があるのだ
これがニューギニア、これが
セレベスこの間なのだ
これが香辛料の生産地、
集散地でその南にアンボイナ、
現在ではアンボンという
中心地があるのだ
17世紀初頭にはイギリス、
ポルトガル、オランダの
3国による激しい係争地で
あったが、
そこに東インド会社総督
ヤン・ピーテルスゾーン
・クーンという人物がいたのだ
このクーンという人物、この
当時の植民地争いの中には
いつもこのような人物が出て
くるのだ
すごく愛国者で辣腕(らつわん)で、
そして現地人に対しては平然と
残酷なことができる男で、
この場合のクーンというのは
オランダ東インド会社の総督
なのだ
いつもこのような人物が出て
くるのだ面白いのだ
例えば、シンガポールなんか
にはラッフルズという人物が
いたのだ。
ラッフルズはホテルの名前に
なっているから知られている
と思うが、ラッフルズと
いうのもそういうタイプの
実行家なのだ
クーンという名前を覚えて
ほしいのだが、この歴史物語
にはクーンという名前がよく
出てくるのだ。
これが機先を制して
アンボイナを攻撃するわけ
なのだ
アンボイナではスペイン、
イギリス、オランダ、
ポルトガルが戦っているのだが、
イギリスとポルトガル、
オランダが争っており、
そのオランダ軍人のクーンが
イギリス人とポルトガル人を
虐殺するのだ
その時におよそ20人の日本人
も一緒に殺されたのだ
日本人が20人もなんて、
これは重大な事件なのだ
その時の日本政府、つまり
幕府の外交政策を気に
しているからこうして話し
しているわけなのだ
事件のあらましは次の通り
なのだ
「イギリス人で殺されたのは
10人いるようだが、国家の
受けた打撃は大きく、
イギリスは香辛料の島モルッカを
諦め、今のインドネシア地域一帯
から手を引き、
これを転機にしばらくはインド
経営に専念することとなった
ほどである。
オランダの強さとイギリス
の敗退を印象づけた事件
だった」。
「クーンは植民地王国確立の
ために命をささげた人で、
オランダにとって記念すべき
総督であったが、
現地住人を多数虐殺し、
独裁排他を貫いて、
インド駐在のあるイギリス
高官は
『クーンをイギリス古代の
極刑たる絞首刑にかけた
としても、なお飽き足らない』
と言ったと伝えられるほどに
嫌われ、恐れられていた」。
きっと、何かいろいろなことを
していたのだろう
続きは次回だ
今日はこのくらいにしといたる