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生まれるんじゃ

どうも村田です

あの日は産経から朝日まで

「マティスさん、

ありがとう」だったのだ

さしあたりは

ideology(イデオロギー)

は棚上げにして、みんな

同じ気持ちになって

「素直になりたい」と思う

のだが、そこからだけでも

救いがあるのだ

そして弥生というのは

稲作を運んだと言われている、

その稲作はもっと古いと

いうことを申しあげたのだ

それから重要なのはここに

大陸からの民族大移動が

あったという説があるわけ

なのだ

これについては諸説あるのだが、

なかったという説が正しいと

思っているのだ

理由を簡単にいうと、

もちろんそういう説を唱える

学者の受けうりなのだが、

ちょうど明治時代に西洋から

入ってきた情報が伝播した

ように弥生土器の伝播の系譜を

たどると、

人間が担ったのではなくて

情報が動いたということなのだ

ちょうど土器を作るのは

女性が多かったのだ

そして西日本に入ってきた

1つの稲作の形式の全部が

全面的に国を覆ったのでは

ないのだ。

縄文稲作の中に弥生の工法が

入っているケースもあるし、

いろいろなものが移っていく

プロセスの中で、

例に挙げたのが母は明治の

終わりごろの人だが、

母の世代はまだ和服で通して

いたのだ。

そして、母の次の世代、

兄弟ぐらいの世代になると

和服と洋服が半々で

今、現段階の日本女性の

ほとんどが洋服になって

しまっていて、よほどの

ことがないと和服を

着なくなっているのだ

しかし何かの時にはさに

あらずということなのだ

このことこそ土器の移り

変わりに大変似ている

のではないかと思うのだ

何世代かかかってゆっくりと

情報が移動して、姿を変えて

いったように東北の奥地にまで

弥生の稲作が進んで、

使われていたのだ。

ところが使われていた農機具

などは縄文のままであったり

するのだ

よく分からないけれど、

その意匠としての弥生、

そして土台は変わっていない

という、そういうケースも

多々あるのだ。

だから大移動が起こった

とは考えられないのだ

ちょうど明治時代に少しずつ

女性の服装が3世代ぐらい

かかって、変わったのと

同じように

長い期間をかけて列島を

ゆっくりと移動していったのだ

もしそうでなければもっと

早い勢いで移動したと思うのだ

全列島を覆い尽くすのに

1年や2年ぐらいで終わって

しまうわけだから、

やはりそれに長い時間が

かかっているということは

伝播したのは人の移動ではなく

情報の伝達であるという

ことを弥生文化博物館の

金関恕(かなせき ひろし)さん

が書いているけれど、その

理由の1つには西ヨーロッパ

のこういう時代の同じ時代の

歴史の情報の伝播のケースで

そのことを言っているのだ

そこに住んでいる人の

生活の移動を伴わないで、

考古学的な条件だけが

変わっていくのが

最近の研究の成果では

一般的であるというような

ことで、その例として

ヨーロッパの研究を

たくさん引用しているのだ

それぐらいいろいろな

ことが分かっていないのだ

いろいろなことがみんな、

半分は推理なのだ

われわれにとってはどうでも

いいことかもしれないのだ

この物語の主人公である

日本列島の位置ということ

について

概論的な話で弥生とは何か、

また縄文時代が非常に大きな

1つの日本の文明の基礎、

非常に長い時間そこで熟成

したものがあったという

ことなのだ

その後、日本が直面する

シナとの文明の遭遇について、

なのだが

この日本列島はとにかく

2度、最初はシナ文明、

中華文明、2番目は

西洋文明というものと

古代と近代に衝突、ぶつかる、

あるいはまた大きな影響を

受ける、避けることの

できない波をもろにかぶる、

そしてまたそれはかぶった

だけではなくて自分たちの

骨髄を作るものであった

ということが不可避な

大きな問題なのだ

その前に先立って、

『国民の歴史』でも強調

したのだが、

人類の歴史が

「軸の時代」と言って

一番最初に西アジアでは

キリスト教、

イエス・キリストが生まれ、

中国では孔子や孟子が、

あるいはまたインドでは

というように古代の精神文化の

高い法意識と深い高度宗教、

それからそれに伴う

合理主義のようなものが

芽生えて、そして深い

言語的な探求もなされたのだ。

それを軸の時代というふうに

考えると、それから数百年

おいてから、いわば

「第二の軸の時代」

とでも言うべき文明の大波が

地球の西側ではゲルマン民族を

中心に、

そして一部スラヴ民族、

そして東アジア、アジア方面

では日本と中国に飲み込まれる

までの新羅、

あるいはタイを入れる人もいて

そういうところで2番目の文明の

開花があり、第二の軸の時代と

いうふうに呼ぶことができるのだ

そして、その第二の軸の時代は

第一の軸の時代と言うべき

中華文明、あるいはまたギリシャ、

ローマ文明、

どちらの2つの古代文明にも

深く守られ、それによって

目覚めた新しい文化が

生まれるのだ

続きは次回だ

今日はこのくらいにしといたる

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