Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

力をいれていたんじゃ

どうも村田です

かつて日本は台湾を50年間統治し

戦争に負けて引き揚げた

しかしその後にも、日本と台湾の

間にはいろいろな交流があった

台湾は非常に独創的な、多元的な

文化を持っているが

「台湾の中にある日本」とは

どんなものなのだろうか

台湾の中にある日本は一言で言えば

「文化財」だ

一つ一つ挙げるときりがないほど

台湾に無数に存在し有形文化財も

あれば、無形文化財もある

まず、有形のものは鉄道、道路、

港湾、水利、すべての台湾の

インフラは基本的には日本が

日本統治時代に建設したものなのだ

清からの割譲を受けて日本が台湾を

領有した当初、台湾は治安が悪く、

土匪跋扈(どひがばっこ)し、

混沌とした状態だった

原住民を始めとする台湾住民の

武力抵抗も激しく、領有から

5年の年月を経て、4代目総督

の児玉源太郎の時にようやく

平定した

その時、児玉の右腕として民政長官に

赴任した医者でもある後藤新平が

台湾のインフラ建設と衛生教育の

実施を強力に押し進めた

後藤はまず、当時台湾に蔓延していた

阿片吸引の習慣をやめさせ、衛生教育を

普及させ、上下水道を設置し、コレラや

マラリアなどの風土病を撲滅させた

さらに、土地調査を実施し縦貫鉄道を敷き、

基隆(きーるん)港を建設し道路交通網を

整備した

後藤の台湾建設への功績は大きく

「台湾近代化の父」と呼ばれている

その後藤が台湾に招聘したのが、新渡戸稲造

(にとべいなぞう)だ

新渡戸はサトウキビの品種改良と大規模な

製糖工場の建設によりサトウキビを大量生産

して輸出できるようにし製糖業を台湾に

大きな収入をもたらす主要産業にまで

発展させたのだ

また、新渡戸の名著『武士道』に大きな

感銘を受けたことを、台湾民主化の父

である李登輝(りとうき)元総統は

述べているのだ

東京に先駆け、台北に世界最先端の

上下水道を作ったのは当時の日本の

一流の土木技師浜野弥四郎(はまのやしろう)

浜野は台湾で「台湾水道の父」と

呼ばれているのだ

また、不毛の地と言われた広大な台南県

(現台南市)の嘉南平野を肥沃な平野に

変えた烏山頭ダム(うさんとうだむ)を

作ったのは八田與一(はったよいち)

灌漑水路(かんがいすいろ)は総距離

1万6000キロにも及び、万里の長城

の6倍の長さなのだ

ダムと水路を含むこの水利設備は嘉南大しゅう

(土辺に川)と名付けられたのだ

八田は「嘉南大しゅうの父」と呼ばれ

毎年の命日には慰霊祭が行われているのだ

日本の米を改良して蓬莱米を作ったのは磯永吉

蓬莱米は今も改良時そのままの味で、台湾を

代表するブランド米で彼もまた尊敬の念を込めて

「蓬莱米の父」と呼ばれているのだ

南投県の日月潭(じつげつたん)という湖に

水力発電所を作ったのは松木幹一郎

(まつきかんいちろう)で、「台湾電力の父」

と呼ばれているのだ

日本が作ったものは100年経っても

そのまま残っており、今もそのまま

使われているのだ

一番象徴的なのは、台湾総督府だ

あなたも台北を市内観光していると

東京駅に似た重厚な赤煉瓦の建物を

目にすると思う

これがかつての台湾総督府で現在は

台湾総統府としててそのまま同じ建物が

使われているのだ

東京駅を設計した辰野金吾門下の

長野宇平治(ながのうへいじ)の設計が

コンペで採用され、それに同じく

辰野門下の森山松之助(もりやままつのすけ)

がデザインに手を加えて建設したのだ

100年前にその中に設置された4基の

エレベーターのうち、1基が今も稼働

しているのだ

100年前に作ったものが、建物だけ

ではなく、エレベーターまでもが

今も使われているのだ

1999年9月21日に台湾中部大地震が

発生し、その時かなりの建物が倒壊した

この大地震に遭っても、総統府を始め、

日本が作った建物は無傷だったのだ

それほど質の高い日本の有形文化財が

台湾にはたくさん残っているのだ

これらで分かることは、日本は台湾に

一流の人材と多額の資金を投じて、

台湾の建設に力を入れたということ

同じように朝鮮にも一流のものを

投じたはずだが彼らには恨みの

文化しか残らなかったのは

非常に残念なことだ

我々の先人も草葉の陰で嘆いているだろう

次回は無形文化財について

書いていく

今日はこのくらいにしといたる

Share

  • Add this entry to Hatena Bookmark

Follow Me