どうも村田です
明日は台風が来るようなので
皆様お気を付けください。
備えあれば憂いなしなので
今日中に備えましょう
それでは台湾についてだ
シナでは1644年に明朝が亡び
満洲人の清朝が征服王朝となった
この時、明朝の遺臣の鄭成功(ていせいこう)
という人が、台湾を拠点に清朝に抵抗した
オランダの台湾統治から38年後に鄭成功が
シナから連れてきたのは軍民合わせて
35000人
当時の台湾の人口は
62万人に増えていたが、それでも
62万人の中のわずか35000人に過ぎない
鄭氏一族が台湾を統治したのは清に
敗れるまでのわずか22年間だ
さらに、清は鄭成功の一族と鄭成功と
一緒に台湾に渡って来た者たちを全員
シナに返した
なぜかといえば、鄭成功ら抵抗勢力の
拠点であった台湾を何としても
潰さなければならなかったからだ
何としても海賊の拠点にさせるわけにはいかない
つまり、台湾で海賊を繁殖させたくなかったから
彼らを引き揚げさせたのだ
当時の清は、台湾を取った後、放棄論と領有論の
2つの論で議論が起こった
あんなところは瘴癘の地であり、統治するのは
お荷物であると
瘴癘(しょうれい)の地とは、あらゆる病気が
蔓延する地という意味だ
台湾になど関わり合いたくはないが、
しかし、台湾がずっと海賊の拠点であり
続けてきたという問題がある
当時この辺りに跋扈したした海賊は
日本人や沿海住民で構成されていたから
海賊のことを「倭寇」(わこう)と呼んだ
「倭」というのは日本人で
「寇」 というのは海賊のことだ
その時、台湾を攻略した施琅(しろう)
という将軍、もとは鄭成功陣営だったのが
裏切って清についた
将軍だが、彼が当時の清皇帝、
康熙帝(こうきてい)に、2つの理由を挙げ
絶対に台湾を領有すべきと進言した
1つ目の理由は、台湾を放棄すれば
間違いなく再び海賊の拠点となるから
2つ目の理由は、放棄すればもともと
台湾を統治していたオランダが台湾を
取ってしまうからだ
当時のオランダは優れた航海術を持ち
国は小さいけれど国力が大きかった
東インド会社を設置して対アジア貿易を
拡大させ学問も、当時の日本でも蘭学と
言ってもてはやされるほど発達していた
そして台湾では当時唯一の特産物だった
鹿の皮を取って、 輸出していた
武士の兜にも使われるので、日本にも
輸出された
そのオランダが、アジア貿易の拠点とな
台湾を再び手に入れたがっていたのだ
康熙帝はこの進言を取り入れ1684年
台湾領有を決め以後、 およそ210年に
わたって台湾は清の領土になったのだ
しかし、清は、できるだけ中国大陸から
台湾に人が渡らないようにする政策を採った
役人だけ3年交替で派遣するのだが
だいたいマラリアなどの疫病にかかり死んでしまう
清に生きて帰れたのは10人もいない
台湾は当時、それほど住みにくいところだった
当時は福建省台湾府という扱いで
渡航禁止令が出ていた
職人など建設のための労働力として
やむを得ず渡航する場合は家族を置いて
単身で行かせた
家族は、渡航者を必ず清に帰って
こさせるための人質だ
1684年当時、台湾の人口はすでに
72万人になっていたのだが、その時、
鄭成功が連れて行った人間を
全部引き揚げさせて、清朝から役人だけ
を派遣した
しかし、清の統治は全面的ではなく、
台南、 台中、 台北などの大都市を
中心に派遣され、東側は原住民の
激しい抵抗があって手がつけられなかったのだ
今日は鄭成功が清朝に抵抗した
話を書いた
台湾の歴史を学ぶことで
台湾の重要性が深まるはずだ
今日はこのくらいにしといたる